神アプリ 128
「ゆっくりお風呂に入って寝ようかな」
倉田はスケジュール帳を閉じ、ショルダーバッグに仕舞い、すっくと腰を上げた。
「あ……ふふ、来たみたい」
倉田が言うと、美優はエントランスに目を向けた。ちょうど2枚目の自動ドアが開いて、妹の恵理が入ってくるところだった。
「……彼も恵理ちゃんの友だちなの?」
恵理が連れている里美や知代は以前にも同じようなことがあり面識がある倉田だったが、今日はもう1人、初見の青年も一緒だった。どうにも特徴が掴みづらい容姿なのだが存在感は人並みにある、良くも悪くも害がなさそうな青年だ。
「美優?」
しかし、美優は時が止まったような心地でいる。
一目見た瞬間強烈な鼓動が胸を打ち、息が詰まっていた。あっという間に視界がぼやけ、文字通り、彼以外何も見えなくなっている。
その彼の姿を遮るように、チラチラと何かが過った。
「おねえーちゃーん。生きてますかー?」
恵理の手だった。呼び掛けに応じない美優の気を引こうと、目の前で手を振っていた。
「っ……え、ああ、何?」
「だからぁ、仕事終わったの?」
「うん、まあ……」
美優の視線はあの青年に注がれている。顔から力が抜けており、見惚れているのは一目瞭然だった。その表情を見て、恵理は妖しい微笑を浮かべている。
一方倉田は一大事を機敏に察知し、恵理のおともを出迎えるように進み出て、青年らの道を塞いだ。
「倉田さん。お久し振りです」
と言う里美らとの挨拶もそこそこに、要注意人物と思われる青年の方に投げ掛けた。
「で、あなたは?」
「俺は五十嵐翔真っていいます。恵理たちとはちょっとした知り合いで……」
「ちょっと?」
知代が口を尖らせ、袖を摘まみ、クネクネと腰を捩る。
「ふ、ふかーい知り合いで……」
「そう……」
少なくとも知代とはふかーい仲なのだろう。ただ気になるのは、足を止めた時から彼にすり寄っている里美の様子だ。知代か里美か、どちらかだけなら分からなくもないのだが、2人とも甘えるように身を寄せているのは違和感しか感じられない。
「で、あなたは?」
嘲るようにまんま返され、倉田の心に波風が立った。
「私は美優のマネージャー」
「名前は?」
「倉田麻里子(まりこ)。それが?」
「漢字は?」
「漢字?」
宙を指でなぞろうとしたが、やめた。姓名判断でも齧っているのか青年は名前を興味を持っているので、それをエサに美優に釘を刺すことにしたのだ。
「これ、どうぞ。美優、ちょっと──」
麻里子は名刺を押し付けて彼らの前から離れていった。
「そんな気はしてたけど」
「倉田さんも虜にしちゃうんですね……」
「どうだかな」
薄く笑いながらねっちりと視線を絡めてくる2人に不敵な笑みで返す翔真は、名刺に書かれている名前を『スレイブ・メイキング』に打ち込んでいく。
里美らが感付くのも無理はない。32歳というアラサーでありながら十分20代で通る若々しい雰囲気があり、一般的に可愛いと囃される容貌をしている。
Tシャツにジーンズを合わせたラフなコーディネートで魅力を抑えている美優は仕方ないが、対して麻里子は、青いカットソーに黒いパンツを合わせている。ブラウンに染められた髪はショートボブで、毛先に見られるカールがまた大人びたポイントになっていた。
すっきりした輪郭に整った顔立ちの麻里子は、切れ長の大きな目に力込めて小さく声を荒らげている。
「美優? 今大事な時なのよ? 分かってるわよね?」
「ああ……でもでも、知っちゃったから……あの人が運命の人だって……」
「ちょっと、しっかりしなさいっ。大体、あんな男のどこが──」
あんな男の魅力はとても言葉では言い表せないと、あんな男をちらりと窺った麻里子は、その瞬間に思い知った。理屈ではない。本能なのだ。生まれたときから彼を求めていたかのように鼓動が激しく胸を叩き、巡り会えた奇跡を噛み締めるようにあらゆる思考が止まっていた。
「話終わった?」
「あああ……」
翔真が歩み寄ると、美優と麻里子は揃ってうっとりと溜め息を吐いていた。すっかり表情を蕩かし、物欲しそうな眼差しを向け、腰をもじもじと捩っている。
「じゃ、部屋取ってくるよ」
彼女らのあからさまな態度に口元を歪めた翔真はフロントへ向かった。
西に赤い淀みを残し、空には夜が広がっていた。ビルから漏れた明かりやネオンの輝きがきらびやかに街を彩り、テールランプのうねりさえ夜闇を飾っていた。
「うわあああ……」
部屋に入るなり、女子大生の3人は夜景に引き寄せられていた。横幅が5メートルはあろうかという大きな窓に手を付いて、目をキラキラさせている。