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逆転!関が原
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逆転!関が原 9

それに伴い、元々これらにいた大名は北陸道・東海道の諸国や信濃に移動した。
また真田昌幸は甲斐1国と信濃諏訪郡に転封した。
豊臣恩顧ながら東軍に付いた福島・細川・田中・池田・浅野なども主に東海道沿いや旧徳川領の武蔵・相模・伊豆等へ国替えになった。
東日本の最大の懸案の徳川家は結城秀康に家督の相続が認められた上で旧伊達領の岩出山に国替えとなった。また旧臣達が周囲に配された為、徳川家は家臣分を含めると約百万石となる。
但し徳川秀忠は東軍の大将の一人であるとして、八丈島に流罪となった。

それに比べて西日本は小幅な移動となった。
毛利・島津・長宗我部等が国替えを嫌がった為だ。
その為毛利輝元・島津忠恒(義弘世子)は本領安堵のみとなり、長宗我部盛親は土佐1国に南伊予・西阿波を加増するにとどまった。
しかしながら、毛利秀元に備前1国、毛利元康(大津城攻防戦参加、元就8男)に美作1国、小早川秀包に家督相続を認めて筑前1国等が認められた為、吉川家を含めた毛利一門は2百万石近い大勢力となった。
また、旧小西領の内、蔵入地と天草を除いた地が島津豊久に与えられた。

立花統虎には一門を含めて筑後1国に加増。
旧黒田領は毛利勝信と福原長尭が山国川を境に分割となった。
北肥後の加藤清正、伊予の加藤嘉明等は1郡程度の減封となった。
しかしながら、最大の功労者である石田三成は近江佐和山から動かず、加増も十万石程にとどまった。
三成本人が「豊家の為に挙兵したのであって、私利私欲の為ではない!それに私は秀頼君の一番最初の盾となりたいのだ!」と百万石級の加増を拒否した為だった。
所領が確定してから、おもむろに秀頼が口を開いた。
「では、新たな大老や奉行衆はどの人物が良いか?」

「毛利輝元殿、宇喜田秀家殿は絶対に必要かと存じます。また、私めはそのような大任をお受けするわけには参りません。」
「うむ。」
「また、豊臣譜代の者も入れてはいかがでしょうか。」
「相判った。」
こうして候補が大坂城に集められた。最初に大坂城に到着したのは宇喜多秀家であった。続いて上杉景勝、小西行長が、さらに毛利輝元、長束正家、島津義弘など西軍の大名が次々に入城した。
この顔ぶれを見て毛利輝元は言った。
「豊臣恩顧の大名の参加は?」
秀頼は考え
「大野治長はどう思うか。」
と治長の意見を求めた。
「先ずは元々《大老》であられた毛利殿、宇喜多殿、上杉殿の御三方はそのまま留任で宜しいかと。その上で徳川家・前田家が抜けた穴を埋めるべきでしょう」
「ならば修理殿はどの方が適当と思われるかな?」
すると治長は、
「越前にこられた前田能登殿(利政)、それに佐竹右京大夫殿(義宣)が適任かと思います」
「豊臣の譜代のものは如何するのだ」との問いに、
「元々、中村殿や堀尾殿が《中老》として付いて居られました。よって、豊臣恩顧の大名には《奉行》《中老》の任に就かせるが良いと考えまする」

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