心恋 10
思考が悪い方へ悪い方へ、まさにどん底に行きかけた時、頬に冷たいものが当たった。びっくりして振り向くと、矢野くんがいた。
「あ、ありがと。」
私は矢野くんから、ミネラルウォーターのペットボトルを受け取る。ひとくち、またひとくち口に含むとさっきまでの気分は次第に消えていった。
「……大丈夫ですか?」
彼は心配そうに覗き込む。すごく心配そうに。
「うん、だいぶ良いよ。」
「さっきよりは顔色良いですね。は〜、びっくりした。良かった、ホントに」
今度はすごく安堵の顔。
「ごめんねぇ。でもさっき電車の中でかなり男前だったよ、ありがとう。」
今度はすごく照れた顔。
ホームには酔っ払いがひとりいるだけで、あとは閑散としたものだ。私たちも自然と静かに、座っているだけになった。次の電車が最終になると告げるアナウンスが響いている。私は沈黙を破るように、電車来ないねぇ、と呟いた。
「…過ぎちゃったね。」
彼も口を開いた。
「ん、なにが?」
「誕生日。…オレ、おめでとうって言いそびれた。」
私は横で真っ正面を向いたままの彼を見つめる。その顔はあまりにも真剣で、次に繰り出す言葉を私は一生懸命考えてしまった。
「ありがとう。」
考え抜いた言葉がこれだった。それは感謝と謝罪とが入り交じった卑劣な物言い。言うならば、予防線みたいなものだ。
「あ、ほら。もう電車来るみたいだよ?」
場内アナウンスが響き渡ったので、私は便乗して話題を変える。ホームには最終電車に乗ろうと、人がパラパラと集まりだした。
雨の匂いがする。
今、気がついた。いつのまに雨が降ってたんだろう。
電車が到着し、私たちは無言のまま、なんとかドア付近に乗り込む。
「…………」
黙るのも無理はない。
しかし、私自身が応えられない以上、彼の口から何かがこぼれる前に私が耳を塞ぐべきなのだ。
(あと3つ。)
矢野くんが降りる駅まであと3つ。私は早くこの状況から抜け出したくて、心の中で呪文のように駅の数を唱えている。
電車は軽快にレールを滑っている。でも、なんだか全然進んでいない気さえしてきた。過ぎている時間はいつも同じはずなのに。
(あと2つ)
バッグを持つ手に汗が滲んできた。すかさずハンカチで汗を拭って、持ち手を組み替えてみる。今日大量の涙を吸収したハンカチは手の中に収めた。
桧山さんのことを改めて思い浮かべる。
(今頃、家着いたかな…) 飲み会の後は、いつもそんなことを考える。誰だって家に帰る、それは分かってるんだ。だけど―
(あと…1つ)
次の駅が告げられた。