心恋 8
「あぁ、よろしく。じゃあ、ふたりともおつかれ。」
彼は軽く手を挙げると、私に少しだけ視線を向け、背を向けて帰っていった。
まるで、本当に何もなかったかのように。私は暫く彼の後ろ姿を見つめていた。
「…来谷さん?帰りましょうか、そろそろ。」
「あ、そうだね。」
私たちは足並みを揃えて駅に向かっていく。
「来谷さんって酒強くなかったですか?オレは酒豪ってイメージありました。」 少し経って、矢野くんが話し掛けてきた。
「今日はちょっと体調悪かったのかも。って人をザルみたいに扱うな!」
私はそう言って笑った。
矢野くんはそんな私を見ている。やっと駅に着いた。
「よかった。やっと笑ってくれましたね。」
「え?」
私は駅の改札手前で立ち止まる。
「来谷さん、今日ずっと元気なかったから。」
矢野くんは、今まで何人の子を落としたであろう甘いマスクで私を直視する。
私の意識は別のところにあった。まだ手の感触が残ってる背中。掴まれた手首。繋いでいた手。胸にキスした口唇。こだまする声。
体中に桧山さんの跡が残っている。
「そんなこと言っても、何も出ないんだから。」
おどけて言ってみたが、矢野くんは一瞬寂しそうな顔をして、フイッと改札を通り抜けて行った。
「あっ!ちょっと待ってってば!」
定期入れを探して、機械に通す。しかし、機械音とともに行く先を遮断されてしまった。
(そういえば、定期は昨日までで、朝は切符買ったんだっけ?)
しかも飲み会はタクシーを使ってきていた。
(…あ〜、なんか思考がまだバラついてる…とりあえず、切符買わなきゃ)
切符を買って再び改札を通ると、階段の手前で矢野くんが笑いを堪えていた。
「タクシーの中で、桧山さんに注意されてたのに…」 さっき見せた寂しい顔はもうなかった。代わりに笑いを堪えるので、精一杯のようだ。
「そうでした…」
私は頭を掻きながら、タクシーの中での出来事を回想する。
『ユカコちゃん、朝、切符で来てただろ。帰り気を付けないとな。絶対古い定期通しそう。』
『あっ、そうでした!桧山さん、帰りにもう一回それ言って下さいね?』
『はいはい。』
(すっかり忘れてた。一緒に帰れるものだと思ってたから。)
階段を上がってホームに着くと、私の息はすっかり上がっていた。
「…つ、疲れた〜。」
運動不足、年、どれも当てはまる。昔はこんな階段、なんてことなかった。
(ジムもっと通わないと)
「年ですか?」
矢野くんが涼しい顔で、聞いてくる。
「違う、運動不足っ!」
「でも、来谷さんはオレと六つ違うなんて、全然感じないですよ。」
「それはどうも。」
私は愛想なしに答える。
「……ん……す…な……」
ホームに到着してきた電車の騒音で、矢野くんの声が掻き消される。私たちは無言で電車に乗り込んだ。