心恋 7
こんな惨めな顔は見られたくないし、さっきまでの勢いはもうない。私はできるだけ顔を隠して、通りを横切ろうとした。
一歩踏み出したその瞬間、桧山さんが私の右腕を掴んだ。ちょうど腕時計の真上辺り。
「…は、離して下さ…」
最後の言葉を言い終える前に、私の口唇は彼の胸で塞がれてしまった。躰ごと引き寄せれている。持っていたバッグが派手な音を立てて落ちていった。
「どうして泣いてるの?」
彼はその状態のまま囁く。私の好きな低音の声で。彼の手は私の背中にあり、心地よい温もりを感じる。
「…なんでもない」
すべて見透かされてる気がして、他に何も答えることができない。すっかり鳥かごの中の鳥。ただ、少し違うのは自分の意志で外に出られるということだ。
私は両手を彼の胸に置き、躰を離す。ゆっくりと。
顔は上げられない。恥ずかしいとか公衆の面前だからとかそんな理由ではなく、単に思考が定まらない。
ただ、それだけだ。
「来谷さ〜ん!」
私たちの静寂は、矢野くんの大きな呼び掛けによって、壊された。私はすぐさま桧山さんから躰を引き離し、バッグを拾う。
邪魔が入ったというより、安堵感の方が大きかった。あのままどうすれば良かったのかなんて到底分からなかったからだ。
矢野くんは通りの向こう側で、私たちの異様な空間に気づきつつ、シルバーの携帯を右手で持ち上げた。
ビーズのストラップが小刻みに揺れている。
「…桧山さん、もう家に帰らないと奥さんに怒られますよ。」
私は何もなかったかのように彼に諭す。本心ではない。こちらへ向かってくる矢野くんに聞こえてもいいように、この場を取り繕う最良の言葉だと思った。
「あぁ、そうだね。」
彼は少し戸惑いを見せながら、同意する。そんな中、矢野くんが通りを横断して、私たちのところへ辿り着いた。
「来谷さん、相当ヤバいんじゃないですか?」
矢野くんはネクタイが苦しいのか緩めながら、開口一番そう言った。
「え、なにが?」
「酒入ってて、ですけど」(そっちのことか…)
「大丈夫だよ!携帯ありがとう。藤川くんにもお礼言っておかないとね。」
私は気丈を装って、矢野くんの手から携帯を受け取り、バッグに滑り込ませる。桧山さんはその間ずっと黙っていた。
「あ、桧山さん。オレ、来谷さんと電車一緒なんで、送っていきますよ。」
矢野くんは三つ隣の駅。
桧山さんは沿線が違う。