元隷属の大魔導師 309
その軍閥貴族の名は大陸でも有数のものであった。
無名貴族だろうと平民だろうと登庸、士官することが適う昨今でも、やはり名家には一目置くこと必然だ。それほどの裏付けられた実力があるのである。
「っ……んふっ、ふっ」
けれども、魔導師官僚は男にしてはやけに高い声で笑った。
まるで、幼児の珍回答を受けた意地の悪い教師のごとく笑ったのだ。
だが、ハンセルが詰問することはできなかった。
それよりも先にディークが立ち上がったのだ。
深々と頭を垂れたが、しかし、肩を小さく揺らしたままであった。
「貴方がたに願うのは追い立てられた獲物を最後に捕らえる役目です」
簡単でしょう?――と朗らかに、けれど有無を言わせぬ雰囲気を発するディークは最後にもう一度肩をすくめた。
「こちらに伝令の者を残していきますので、では……」
そして、こちらの返答も聞かずにゆらりと天幕から、まるで風か影かのように消えていった。
「…………」
沈黙するハンセルへ、部下たちの視線が集中した。
しかし、たとえあのような若僧に小馬鹿にされようとも、彼らの提案を呑むしかないことは誰もが分かっていることのはずだ。
もし、他人の目がなければハンセルは歯ぎしりのひとつでもしていただろう。
だが、この老将にできたのはゆっくりと命令を紡ぐことだけであった。
ディークは天幕を出ると待機している部下共の下へとゆっくりと歩いていった。
(ワイス家?剣の大家?はっ――なにをバカな)
思い出しただけでも笑えてくる。
たしかに剣豪を倒すにはそれなりの戦力が必要かもしれない。
しかし、剣士はどこまでいっても剣士でしかないのだ。
奴らに大局を変えるほどの能力はすでにない。
兵士の数や練度、なによりも戦術や魔術の発展により剣一本の間合いが狭まってしまったのだ。
時代は、魔術だ。
だが、未だにそれが分からない莫迦が多くて困る。
「いや、僥倖と言うべきか?」
だからこそ、今回のように他人の庭に成った美味い果実を味わえるのだ。
「くっくっ……」
ハンセルの前では終ぞ見せなかった露悪的な雰囲気でディークは笑った。
その時である、
「あ、あの……副団長?」
おそるおそるといった様子で名を呼ばれた。
見れば、部下が――自分の秘書官である少女が不安げな表情を浮かべている。
まだ幼さの抜けない、去年度の『黒の塾』卒業生である背の高い少女の金色の頭髪をディークは軽く梳いてやった。
実兄の娘であり、伴侶のいない――そして、これからも持つことはないだろう自分にとっても愛娘のような存在である。
「エディー、作戦開始です」
「もうっ、叔父様ったら!そんな子供時分の渾名を……」
「君も叔父様と呼ばないように、リードリン秘書官?」
肩をすくめたディーク。
少女から目を外すと、遙かに望む王都ウェンディへと移した。
我らが大教師――『黒真珠』の字をもつ稀代の才女と唯一肩を並べた伝説の魔導師『紫水晶』。
その弟子の名を、今や知らない魔導師は『黒の教室』にはいない。
デルマーノ――家名もなく称号もない、ただのデルマーノ。
けれど、おそらく無策で挑んで勝てる者は、大隊規模で考えてもいまい。
そんな人外の化け物、それが今回の相手だ。
(そう、無策では――ね)
ディークはすっと息を吸った。
「『黒羊』第一魔導戦隊!出陣せよっ!」
もしこれが騎士団などであれば声でも上げるのだろうが、部下達は静かなものであった。