元隷属の大魔導師 289
微笑んでいた表情のまま、額に汗するフローラとヘルシオへ、元隷属の剣士は眉の左右を下にして続けた。
「それは、まだ掛かるのか?」
内容通りの質問でないのは重々承知だ。
フローラは睨んでくる一重の相貌から視線を逃がした。
「…………」
「…………」
けれど、頬をヒリヒリとさせる剣呑な眼差しが止みそうな気配はなかった。
「……ぃ」
「い?」
「い、行こっか、ヘルシオ?」
その重苦しい沈黙に耐えかねたフローラは、なるだけエドゥアールの方へ注意を向けないようにしながら、言った。
その言葉に赤髪の魔導師はコクコクと頭を上下させてくる。
喜劇の一幕のような問答。
――けれども、フローラは確信めいたものを覚えていた。
この先に、ヘルシオの推測通りに敵対者がおり、そして、戦闘は免れないだろうことを。
いや、それは何もフローラだけではないだろう。この場にいる者――この場で息をしている者、皆の共通認識だったに違いない。
だからこその茶番である。
気を紛らわしたかったのだ、きっと。
フローラはふと、廊下から望める北方の空へと目をやった。
そこでは、つい先程まで邪竜が暴れまわり、クレディア軍を牽制していたはずだった。
しかし、いまは実に静かな曇天が、胡乱な雰囲気で広がっているばかりだ。
けれども、その邪竜の背に乗っていたふたり――デルマーノとシャーロットの健在に疑いはない。
多分、いまのこの国にいるすべての存在の中でダントツに安全なのはあのふたりだからである。
「フローラ?」
「あっ……」
どれくらいの時間を呆けていたのだろう?そんなに長い時間ではないとは思うが……。
フローラが窓から、声をかけてきた恋人へと視線を移すと気恥ずかしさにわずかに微笑み、そして大きく頷いた。
「うん!行こう!」
そうだ。
みんな、結局はひとつの目的のためだけに動いているのだ。呆けている暇なんて一秒もありもしない!
フローラはもう一度だけ、窓から外を一瞥するとすでに歩みを勧めている薄情な剣士の後を赤髪の恋人と共に追っていった。
「――ああっん!もお〜〜っっ!」
どこまでも、パッとしないねずみ色。
そんな視界の端で黒く迫る点たちを捕えたシャーロットは癇癪の声を上げた。
当初のクレディア翼竜騎士たちの執拗な追撃は、いまや、とっくに沈静化してはいた。
一通り、自分とアルゴとで返り討ちにしてやったからである。
フローラたちからの伝聞ほどの実力は彼ら竜騎士にはなく、さほど手間はかからなかった。
「さては……もったな、フローラのやつぅ――って、ぅわ!」
唇を尖らせて脳裏の女騎士に悪態吐いたシャーロット。
だが、その時である。
下方の、雪の積もる深い森の中から数十もの矢が飛んできた。
回避するためにアルゴがグンッと高度をたった一息で上げたものだから、そんな邪竜の背に乗るシャーロットは溜まったものではない。
もう王都も間近だというのに、まだ足元に広がる森は鬱蒼としており、狙撃者の姿を拝むことはできない。
しかし――、
「っとに、もお〜。なんだか、ヤるのがいるんだもんなぁ、面倒くさい!ねぇ?」
「グゥ……」
シャーロットが首――には届かないので項辺りを撫でてやると、アルゴは肯定の返事をしてきてくれた。
フゥン!と荒々しい鼻息をつけ加えたところを見ると、思った以上にかすっていたりしてるのかもしれない。
「でもでも、魔導師でしょ、きっと?やらしい奴らはさ。なのに、気配っていうか、魔法の発動の初動っていうか……そういうのが感じられないんだよね〜」