勾玉キッス☆ 114
「ですけど如月先生、ノルマは? 補習しなくてはいけなくなるのでは?」
一つ向こうのレーンから、片倉が首をかしげながら言った。
「いいのよ。必要な運動強度を合わせればカリキュラムは自由よ。たまにはいつもと違うことしたいでしょ? 太極拳って確か美容にも良いのよね? 無駄な贅肉がとれて胸も大きくなるわ」
「ほっ本当ですか!?」
通常と違うカリキュラムに不服そうにしていた片倉が、胸も大きく、の一言に食いつく。
「先生……あんまりいいかげんなこと言うダメヨー」
ルオが小声で訂正を入れたが、片倉は聞いていなかった。
何やらぶつぶつつぶやきながらこちらの動きをじっと見つめている。もはや反対する気は皆無らしい。
麗華姉ぇは一つ頷いて、プールの俺のそばに滑りこんだ。
「というわけで、桐生さんは泳げないから、あたしが手とり足とり補助します。みんなも見ながらやってみてちょうだい」
なるほどこういう形に持って行きたかったのか。
満足げな麗華姉ぇに、俺は感心さえ覚えていた。
俺の考えは甘かった。
麗華姉ぇという人は、それはもう欲望に忠実なのだ。
生粋のお嬢様育ちで、優秀で、しかもこの美貌。欲しいものが手に入らなかった経験などしたことがない。
彼女は多者択一を迫られたときに、他をあきらめて一つを選び出したりはしないのだ。
そういうときは手を尽くし、万難を排して、全部獲る。
それが麗華姉ぇの生き方だった。
教師になりたてのころ、彼女なりに悩みを抱えていたのか、麗華姉ぇは中学生だった俺相手にひとしきり愚痴をぶちまけて……そんな生き方を、『持っている者』の果たすべき義務だと言った。
だから学校経営に妥協はしない。生徒の誰一人切り捨てたりはしない、と。
当時何があったのかは知らないが、そのときの麗華姉ぇの、凛然と冴えた美しさは今でも脳裏に焼き付いている。
いわゆるノブレスオブリージュとは意味合いが違う気がするが、それが俺の従姉のやり方で、俺はそんな従姉を内心誇らしく思っているのだ。
が。
こんな場面でまでそんな性格が適用されようとは、お釈迦さまでも思うまい。
「それでは始めますね。桐生さん、こちらに」
すすっと麗華姉ぇが手招きする。しぶしぶとだが、俺は麗華姉ぇの横に立った。
麗華姉ぇの身長は俺が男だった時とほぼ同じで、ちょうど頭の所に麗華姉ぇの胸が当たる。
こうやって、麗華姉ぇに密着するくらいに近くにいるのは、なんだか緊張する。
麗華姉ぇは俺の肩に手を置き、スっと後ろに回って…って言うか、あの…指の動きが妙にいやらしいんですけど…
「うふふ…雅ちゃん、そんなに緊張しないで。もっとリラックスして」
絡みつくように俺の背中を撫でながら甘い吐息がする。
そのたびにゾクゾクするのは気のせい?
目の前ではクラスメイトが見ているし、恥ずかしくて水の中に入りたい気分だ。
「あ、あの…先生…?」
「なあに、雅ちゃん?うふふ…」
「あ、いえ。なんでもないです…」
後ろに振り向いた時、麗華姉ぇは…期待に満ちた表情で輝いていており、俺をおもちゃにする気が満々なのがよくわかる。
…って言うか、やたら背中越しに胸を押しつけたりするし。
きわどい化繊の水着越しに麗華姉ぇのおっぱいが当たるのは、男だったら歓喜するけど
そのあとが怖いんだよな。
「トホホ…」
さすがにアイコンタクトして、裕美に助けてもらうとしたが、あっさり拒否された。
はぁ…やっぱ裕美でも駄目か。
「では、トンさん、見本をお願いしますね。」
「ハーイ」
ルオが、嬉々として演武を始めた。
そういえば、彼女の姿を近くで見るのは、初めてだったような気がする。
プールサイドに立ったルオは、深い呼吸とともにゆっくりと足を肩幅に開いた。
そこですっと体軸がきまったのが俺にはわかった。鮮やかなものだ。
そのまま腕をゆっくりと、極々ゆっくりと上にあげ、前に持ってきて下げる。膝を曲げ、かかとを浮かせる。
簡単そうにやっているが、ちゃんとやろうと思うと実は一番難しい。
俺は本格的にやっているわけじゃないからいい加減なものだが、稽古の始めに裕美がずいぶんこのあたり……立って呼吸するだけの挙作に時間をかけているのを知っている。
続けて足の移動と回転動作が加わる。おなじみの太極拳だ。
ゆったりした稽古着と違って水着なのがいい。いい感じに力の抜けた動きのムダのなさがはっきりわかる。
なんとなく見とれているうちに、俺は今日に限ってルオにやたらと惹きつけられる理由に気付いた。
いつもぴんぴんと跳ね回っているおさげ髪をお団子に巻きつけて留めているのだ。
おかげでおてんばの印象が薄れ、華奢な首筋やうなじの白さに目がいってしまう。
髪型って大事だ。
麗華姉ぇがブラッシングだのアレンジだのにやたら時間をかけるのも理解できるってもの。