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異説/番町更屋敷
官能リレー小説 - 時代物

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異説/番町更屋敷 5

忍の世界において、己の流派である組織から脱することは絶対に許されない。
忍の部族は秘密主義を徹底。人里離れた土地で集落を築くのは外部から攻撃に対して部族を守る事、さらに結束力を高め能率的な集団行動を行う為である。
すなわち、その集団に生まれた忍者は一生死ぬまでその集団の掟に従う。
鉄の結束により、部族の安泰を保っている忍たちにとって、内部情報を知りながら、組織の管理下から抜ける者は、とてつもなく危険な存在である。そうした経緯から必然的に、抜け忍を排除すべく追っ手が放たれる。
即ち「忍から足を洗う」という行為は自殺行為に等しく、過酷な運命が待ち構えている。
こうした忍の傾向は遊廓の遊女たちのほうが強く継承していた。
戦国時代から徳川家康の大坂冬の陣と夏の陣で完全に徳川の天下となり、江戸幕府の時代が到来する。
甚内、のちに名を改め庄司甚右衛門。
吉原の創設者と言われている人物で関ヶ原に赴く徳川家康を街道筋で待ち受け、若い女性に家康の夜伽をさせたという。
この後慶長十七年に庄司甚内が遊女町設立の請願した際、家康が「ああ、あの時の……」と言ったという。
小田原北条家の家臣であったという説もある。これは権威付けの嘘らしい。駿府の娼家の主であったと伝えられている。北条家に支えた風魔の忍か、忍の者を仲介する家康の駿府で飼われていたツナギか。
吉原では『おやじ』と尊敬されていた。甚内は後に甚右衛門(じんえもん)と改名した。
これは慶長の頃に鳶沢甚内・高坂甚内という二人の甚内が野盗として名を知られていたため、まぎらわしいので変えたと言われている。
高坂甚内とは何らかの抗争があったと噂があるが、武芸に優れているようには見えない。甚右衛門は吉原の元締である。
三人の甚内と呼ばれた人物たちの中で、庄司甚右衛門だけは関ヶ原の戦い直前に家康と接触している。
先見の明があったというより、徳川家康と密書を持参したくノ一を密会させたツナギであった。
庄司甚右衛門、この頃はまだ庄司甚内だが、くノ一が阿国の配下の者とだけしか知らなかった。家康が暗殺されたら庄司甚内に嫌疑が向けられるとわかっていたが、庄司甚内は阿国と対立する気はなかった。
関ヶ原の戦いは徳川家康の勝利に終わる。
鳶沢甚内も戦国時代には盗賊になり、徳川の時代には商人として生きた。
鳶沢甚内は小田原北条氏の家臣であった。小田原落城ののち、盗賊団の頭となる。
しかし、次第に世の混乱が収まり始め、盗賊の数は減っていった。鳶沢甚内も一度、捕らえられた。
江戸幕府は盗賊の高坂甚内を捕縛するために鳶沢甚内に協力させた。高坂甚内は捕らえられ処刑された。
鳶沢甚内はその報酬で江戸で古着商をはじめた。なかには盗品を売りに来た盗賊もいて、ひそかに幕府役人に連絡をして捕縛させた。
時代を読んだ仲間たちの多くが、各地で鳶沢同様の古着商となっていった。
幕府に協力する商人たちである。
「鳶沢」甚内を由来として、日本橋の古着屋が集まった地区に鳶沢町の名がついた。これが日本橋富沢町の来歴といわれる。
高坂甚内。
武田氏に仕えた甲州流透破の頭領。
武田家臣の高坂氏(香坂氏)の出で、一説には高坂昌信の子とも孫とも言われる。
徳川氏は関ヶ原の戦いに勝利し、関東一円の支配に乗り出した。しかし関東には後北条氏の残党がまだ残存勢力として残っており、治安を安定させるところまでは手が回らなかった。
そのため関東の闇社会に詳しい高坂甚内からの申し出を受け、関東の治安回復の責任者に任命した。

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