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異説/番町更屋敷
官能リレー小説 - 時代物

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異説/番町更屋敷 1

出雲阿国。
伝承によれば、出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘といい、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したという。
慶長5年(1600年)に「クニ」なる人物が披露した見事な踊りが評判になる。
「ヤヤコ跳」を踊ったという記録が時慶卿記にある。この「クニ」が3年後の慶長8年(1603年)に「かぶき踊」を始めたと考えられている。
その後「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていた事もあり、わずか十年あまりで全国に広まった。
のちに幕府により禁止される。
もともと阿国が演じていたものも前述のように茶屋遊びを描いたエロティックなものであり、阿国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない。
従来の説では寛永6年(1629年)に女性の芸能者が舞台に立つ事を禁止したとされる。だが、近年では十年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている。
かわいらしい少女の小歌踊であった「ややこ踊」から、傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含むような「かぶき踊り」に阿国は踊りを変えていったようである。
踊りといっても、ただ蝶のように舞うのではなく演劇のようなものと考えるとわかりやすい。
幕府が禁じたのは踊りを禁ずることで、各地を巫女として渡り歩きながら、遊女として売春していた女性の芸能者を規制したものであろう。
巫女を規制しなければならなくなったことの背景には、吉原遊廓の成立との関連が大きく関わってくる。
徳川家康が天正18年8月1日(1590年8月30日)に江戸に入府し、その後、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開く。
江戸は俄かに活気づく。家康は東海地方から多数の家臣団を率いて江戸に入ったためである。
江戸の都市機能の整備は急速に進められた。そのために関東一円から人足を集めたこと、また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことで人が集まった。
そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになった。
江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。
そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。
当初は幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後、慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)を代表として、陳情した際に、客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。犯罪者などは届け出る。という3つの条件で陳情した。

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