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異説/番町更屋敷
官能リレー小説 - 時代物

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異説/番町更屋敷 4

結局、風俗を乱すとして女歌舞伎は、1629年に幕府が禁止したものの、女歌舞伎流行から禁止までの間に、徳川幕府から江戸に遊女屋が許可された。徳川家康が江戸に幕府を開いた影響ともいえる。正式に認可されたのがのちの吉原である葭原遊郭。設置されたのは元和三年(1617年)である。
これ以降、公娼制度(ただし認可しただけで助成金などは無し)が始まり それに伴って私娼が摘発されるようになる。
これはくノ一を捕らえ、懐柔か強制的に幕府側につかせる摘発でもあった。
摘発された私娼は官許の吉原へと送られ、三年〜五年の年季を勤める。
彼女らは「奴やっこ女郎」「けいど女郎」と呼ばれて、岡場所遊里(摘発された女郎が送られる遊郭)は値段の安さもあって繁盛した。
女衒によってある程度の容貌であると見込まれ、幼い内から教養を身に付けさせられる公娼とは違い、当然のことながら、私娼は年齢・容姿・教養の有無を問わない。
吉原に元私娼の素人女郎が送り込まれ またそこが人気を博することによって、それまで諸芸に通じ容姿端麗な上妓が好まれていた遊廓が次第に変容していく。
安値の遊女が増えるにつれて上妓は減少し、遊客の幅が広くなり、侍だけでなく町民や商家の者も訪れるようになる。
これによって、元私娼のいる岡場所遊里と公娼のいる遊郭との質の差が崩れていく。
最高の花魁である太夫は、吉原においては1760年の玉屋・花紫を最後にいなくなる。
阿国は慶長12年(1607年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息がとだえた。
慶長17年4月(1612年5月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、これは阿国の一座によるものとする説もある。
どちらにせよ、吉原遊廓の成立の直前に、歴史上から消息を絶っているのである。
没年は不明。
出雲に戻り尼になったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国のものといわれる墓がある。
また、京都大徳寺の高桐院にも同様に阿国のものといわれる墓がある。
望月千代女のごとく、阿国もくノ一の歩き巫女を率いていた頭領だったとすると、幕府による江戸での私娼の摘発の前に、阿国と阿国が率いていた歩き巫女たちは消息を絶ったのは偶然なのだろうか。
武田信玄に大いに苦しめられた徳川家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。天正10年(1582年)の武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て武田遺領を確保すると、武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいる。
自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉と名乗らせ水戸藩を治めさせている。
武田信玄が作り出したくノ一の歩き巫女ついて、徳川家康は知らなかったはずはない。
吉原遊廓の設立の契機を作った庄司甚右衛門は、元は駿府の娼家の主人。
慶長10年(1605年)4月16日、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、淀殿がこれを拒絶。結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まった。 なお、このとき、次世代の家臣、井伊直孝・板倉重昌も叙任された。慶長12年(1607年)には駿府城に移って「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けて幕府の制度作りに勤めた。
徳川家康が江戸から駿府に移り、元駿府の娼家の主人が代表する遊廓が作られた。
これは、徳川家康へ吉原遊廓経由で江戸の情報が伝えられていたにちがいない。

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