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異説/番町更屋敷
官能リレー小説 - 時代物

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異説/番町更屋敷 3

各地の情勢を探るには歩き巫女はくノ一の変装として便利な存在で、幕府側としても江戸にとしても出入禁止にしたくはなかった。
その折衷案として踊りの禁止とした。それならば各地の情勢を探るくノ一は江戸に直接訪れて情報を伝えることができる。
さて出雲の阿国には荒唐無稽な出生説がある。
「第六天魔王」の異名を持つ戦国武将、織田信長の隠し子であり、くノ一として育てられたという説である。
遊女とは売春婦のことだが、語源にまでさかのぼると最初は踊り子や歌い手の女性たちを指していた。これらの女性たちは決まった住居を持たず、旅(遊行)をしながら暮らしていたので、売春婦という意味ではなく旅する女という意味で「遊女(あそびめ)」と言われていた。
旅をする女性は芸能や売春で路銀を工面していたが、危険のつきまとう商売柄 仲介者を置いた方が便利で安全ということで、斡旋する者が現れる。歩き巫女のくノ一を斡旋するツナギである。
そしてしだいに旅費ではなく生活費を稼ぐために定住して売春する遊女が現れ、また客と遊女の仲介として遊女屋が出現する。
これ売春婦としての遊女の始まりと言われている。ちなみにかつて遊女屋は「傾城屋」と言われており「廓」「遊郭」という呼び名が登場するのは官許の遊女屋が現れてからのことである。 
古代日本には貞操観念というものはなく、従って売春という感覚も言葉もない。気の合った者同士で一緒に暮らそうが別れようが特におとがめもなく、そもそも結婚の概念がなかった。ただ、子供が生まれた場合は女性が引き取って育てていたので、男性は責任を問われない代わりに親権を認められていない。
平安期の貴族社会では、一つ屋根の下に住むのではなく男性が女性の元へとやって来る通い婚が一般的だったのはよく知られている。
時とともに結婚の観念が変わっていき、男女互いに「操を立てる」ことに重点が置かれるようになる。鎌倉幕府までは女性の地頭が認められたりもしていたが、家督制度や家長制度が厳密化していくと女性の立場が次第に低くなっていく。
1582年、奈良の春日大社で幼い子供二人がややこ踊りを踊ったという記述が『多聞院日記』(奈良興福寺・多聞院の院主だった多聞院英俊[1528〜1596?]など複数の著述による桃山時代の長期資料、全46冊)に残されており、他の資料などを総合して推理すると「阿国たち十人ほどの旅芸人一座」は「出雲大社の本殿修理費を勧進するため」つまり寄付金を集めるためという名目で諸国を歩き回り、1600年頃には京都にのぼって院の御所や宮中などでも踊りを披露していたようである。
ただ、どの記述を見ても「クニ」たちの踊りは「ややこ踊り」(幼い子供の踊り)と紹介されているから、少し後、都で爆発的な人気を博した「かぶき踊り」とは別様のものである。
慶長八年(1603年)五月初旬、京都の四条河原に小屋をかけた出雲阿国は、男装をして颯爽と舞台に現れた。女装させた男を相手に「かぶき踊り」を派手に演じて、大衆の心を虜にする。
ほぼ同じ頃に、阿国一座は女院の御所へも伺候したらしく、舟橋秀賢(ふなはし・ひでたか、1575〜1614)という武家の日記に『女院において、かぶきをどりこれあり、出雲の国の人』との記述が残されている。
この鮮やかな変身振りについて、絶世の美男子で槍の名人して都でも有名であった名古屋山三郎(なごや・さんざぶろう、1572?〜1603)が阿国の踊りを演出し、競演した、との俗説が根強くある。
だが、一度浪人していた彼は慶長五年(1600)に妹の縁から美濃国の森忠政の家臣となった後、奇しくも阿国がかぶき踊りを始めた一ヶ月余り前の慶長八年四月、築城工事の方法をめぐり、かねてから犬猿の仲であった同僚の井戸宇右衛門と私闘に及び、相討ちとなって死去している。
名古屋山三郎と阿国が二人が揃って四条河原で舞い踊ったということはなかった。
ただ、阿国が「男の姿」に仮装し、自らが山三郎になったつもりで演技をした、ということはありえるだろう。

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