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異説/番町更屋敷
官能リレー小説 - 時代物

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異説/番町更屋敷 2

その結果、受理されたものの、豊臣氏の処理に追われていた当時の幕府は遊廓どころではなく、陳情から5年後の元和3年(1617年)に、甚右衛門を惣名主として、江戸初の遊郭「葭原」の設置を許可した。
その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加えて、江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを申し渡した。
しかし、寛永の頃までは、遊女が評定所に出向いてお茶を出す係を務めていた。
結局、遊廓を公許にすることで、そこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。
ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した。
このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、現在の日本橋人形町にあたる葦屋町とよばれる2丁(約220m)四方の区画。葦の茂る「葦原」で、当時の江戸全体からすれば僻地であった。
歩き巫女は、かつて日本に多く存在した巫女の一形態である。特定の神社に所属せず、全国各地を遍歴し祈祷・託宣・勧進などを行うことによって生計を立てていた。旅芸人や遊女を兼ねていた歩き巫女も存在した。そのため、遊女の別名である白湯文字、旅女郎という呼称でも呼ばれた。
吉原遊廓の成立によって売春する歩き巫女を規制しなければならなくなった。しかし、歩き巫女が全員遊女というわけではなく、歩き巫女そのものを規制は難しかったので、幕府側は踊りを禁ずるという苦肉の策となったのである。
歩き巫女を幕府が警戒した隠された理由がある。
忍者はその活動の性質上、具体的な事績や人名が歴史的な資料としては残りにくい。
そのため、さらに隠密な活動である女忍の活躍は伝承以外はほとんど残っていない。
史実に登場するくノ一で有名なのは、武田信玄に仕えた歩き巫女の集団と、その頭領である望月千代女である。
戦国時代には孤児や捨て子、迷子が大量に発生した。その中から心身ともに優れた少女などを集めて歩き巫女に仕立て、隠密として各地に放ったのがくノ一である。信玄がくノ一の養成を命じたのは信州佐久郡の豪族望月氏当主・望月盛時の若き未亡人・望月千代女。
実は千代は甲賀流忍術の流れを汲む名家・望月家の血族である。豪族望月氏には信玄の甥が入り婿になっていたため、信玄は望月千代女を「甲斐信濃二国巫女頭領」に任じ、信州小県郡祢津村(現長野県東御市祢津)の古御館に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を開いた。
歩き巫女に全国何処でも自由に行けたため、関東から畿内を回って口寄せや祈祷、舞を披露しながら各地の情報を収集、ツナギ(連絡役)の者を通じて信玄に逐一報告した。反面、信玄は家臣の謀反を恐れて、彼らの自宅に僧、巫女を泊めるのを禁じた。

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