大陸魔戦記 89
「例えの話であろうが」
思わずドア越しに見えぬ相手を睨むが。
「では、湯が漏れぬよう幾十にも漆喰に塗り固められた壁から、音が漏れるとでも?」
――今日は、やたら痛い所を突いてくる。
「…卿は長い目で物を見た方が良いぞ」
「というと」
「習慣とは恐ろしいもの。常日頃から改めないと、いざという時につい地が出てしまう。卿も知っていよう」
「そんな些細なことより、お言葉遣いの方を気になさる方が先かと思われますが」
――あ。
「我の言葉遣いのどこが間違っておる」
「そう、それです。我が、卿も、間違っておる、などと。庶民が使う言葉ではございません。姫殿下が口を開けば誰もが分かりましょう。この姫君はやんごとなき家柄のお嬢様なのだ、と」
ああそうか、これは。
「論点をすりかえるな」
「いいえ、同じことです」
まずい。それも、とびきり上等のまずさだ。
背筋が凍る緊張感。
久しく忘れていた感触を、姫は思いだした。
今日のアグネスは――
そう、猫が獅子に化けた感じ。これだ。
扉越しだから気づくのが遅れた。
面と向かえばすぐ分かったはずだ。
いつも通りに、平然としながら。
目が、据わっているのだ。
彼女の家に伝わる大事な騎士兜を隠した、あの時。
自分の護衛を初めて任された彼女をすっぽかして帰ってきたあの晩。
にこやかに、微笑を浮かべながら。
目が、据わっていたのだ。
「…ぁ、アグネス?」
「はい?」
――本気だ。極めつけの本気だ。
きっかけは、あれか。姫様という輩はおらぬぞ、か。
あれなのか。あれで怒るのか。
あれからずっと火に油を注いでいたのか、我は。
「姫様」
「なんだ」
「失礼いたしますね?」
駄目だ。
今入れたら何されるか――
「ね?」
「…うむ」
――カチャリ。
軽い金具の音が、僅かに鳴る。
「姫様、ご一緒させていただきます」
「…好きにするがよい」
アグネスの、引き締まりながらも丸みを帯びた身体。
其を覆う褐色の皮膚が、白い湯気に包まれて美しく映える。
もっとも、セリーヌにとってはそんな事に気を回す余裕などない。
こんな時のアグネスには、抗えない。
「別に、何をされる、というわけでもないのだがな…」
以前と変わらぬ己の有様に呆れて、そう漏らす。
「何か仰せになりましたか」
「ただの独り言だ」