大陸魔戦記 88
古代には、広大な公共浴場というものがあったという。
市民が男女、老若男女の境なく、浴場に集い、哲学を語り、詩を吟じた。
そこでは、何者にも束縛されなかった。
忌むべき奴隷や異民族であろうと。
蹴落とすべき商売敵や政敵であってさえ。
どんな相手にさえ、そこでは気兼ねなく語り合うことが求められた。
それこそが人としての当然の行為ですらあった。
いや、とセリーヌは思う。
そもそも古代人はそんな義務感に縛られていたのかどうか。
きっと何もかも大っぴら気だったのだ。
なにしろ裸だ。
暗殺のための小刀も、身分を示す衣も、ない。
いかな相手でさえ、ここでならばと、思わず打ち解けてしまったに違いない。
肉体的快楽を戒める東方正教の普及に従って、それらの古き習慣は失われていったが。
今の、貧困層が集う蒸し風呂屋とはまるで違う趣であったろう。
今もその習慣が残っていたら、と思わなくもない。
きっとジルドは女の裸を見られないから端っこで固まっているだろう。
アグネスは男に見られる度に不機嫌になるに違いない。
ふと、笑ってしまう。
ああ、これは夢物語だな、と。
いつの日か全ての敵と、オークやゴブリンらとですら分かり合える日が来るやもしれぬ、という己の甘い考えは、愚にもつかぬ妄想なのだな、と。
「姫様」
とっさに繕おうとして、呼びかけたその声が扉越しのものであることに気づき、セリーヌは苦笑した。
「失礼いたします」
その呼びかけに。
セリーヌは無視を決め込んだ。
「…姫様?」
おそるおそるの問いかけに、セリーヌはこう答えてやる。
「姫様などという輩はここにおらぬぞ?」
かすかに息を呑む音が聞こえるかと思ったが。
「恐れながら」
アグネスは、平然と返してきた。
「他人行儀を怪しむ輩がおらぬこの状況では、気にすべき事柄ではございません」
「そうかな、『薄壁と破れ屏風には気をつけよ』というではないか」
「ここには薄壁も破れ屏風もございませんが」