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爛れる月面
【寝とり/寝取られ 官能小説】

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1.違う空を見ている-17

 あくまで紅美子の男を装った井上の態度に、どうしてもこの男を引っ叩きたくなって、抑えられているドアノブの手を抜こうとするが成らなかった。蹴りを急所に入れようとしても背中に回された手が巧みにそれを妨げている。
 あ――。
 急に膝が折れて、井上が支えていなかったら崩れ落ちてしまうところだった。暴れすぎた。水を数口飲んだ程度では薄まらないアルコールが、急に体を激しく動かしたために一気に回ってきたのだ。視界が歪んで回る。
「医務室にご案内いたしましょうか?」
 チーフマネージャが伺う声が遠くに聞こえる。
 井上が何かを話している。英語だ。言っている内容が分からない。
 肩にしがみつくように何とか立っていた紅美子は、井上の顔を見ようとしたが、歪みどころか天地もあやしくなってこの男の動向を追い続けることができなくなった。
「……承知いたしました」
 チーフマネージャがドアの前を離れていくのを、待って、と声をかけようとしたが、昏倒寸前の意識では声が出なかった。
「行こう」
 不意に体が宙に浮いた。井上に背と膝の裏を抱えられて持ち上げられたのだ。いたずらに週末に徹にソファの上でされたものと同じ体勢であることが思い出されて、身をばたつかせようとしたが体も上手く動かなかった。井上に抱えられたまま、個室を出て行く。


 早田の腕には紗友美が絡みついていた。ホテルを出て皇居の方へと向かいながら、
(どこにするかなぁ……)
 と早田は考えていた。高い肩には届かないから、紗友美は早田の二の腕に頭をくっつけて目を閉じ、彼の向かうままに歩いている。
 バドゥル・インターナショナルの給与水準は、日本企業に比べたらもちろん高い。だが、商談周りで人と接する機会が多い早田の部門では、身姿には厳しいガイドラインが定められており、スーツや靴、ネクタイなどは自前で取り揃えなければならなかった。量販店のスーツは以ての外で、高いレベルの品格を維持するためにはオーダーメイドで体にピッタリと合ったスーツを用意する必要があった。またグローバル企業であるがゆえに海外出張が多く、世界各所で洗濯をしたりするのも全てホテルのクリーニングに預けたりするから、何かと金が飛んでいく。殆どが出来高制では新卒三年目の給料にはかなり苦しかった。
(丸の内なんて連れてけるホテルなんかねえよ……。ひでぇや井上さん)
 紗友美はこれから抱かれる一流企業の自分に過大な期待を持っているようだった。ラブホテルで、などと言えばガッカリされた上に、SNSで何か発言されたら一気に拡散してしまう。バドゥル・インターナショナルはソーシャルメディアでの世評を常に追う部署を設けて、一社員に対する書き込みであっても収集している。社内では、それは考課にも影響する、という噂があった。
「足りるかな……」
 クレジットカードの残額を気にするあまり、思わず声を出してしまった。
「え、なんですか?」
「いや、どこに行こうかなぁ……ってさ」
「私、どこでも構いませんよぉ……」
 言って紗友美は再び腕に身を寄せた。
(だったら帰ってくれねぇかなぁ)
 紗友美は嫌いなタイプではないし、普段声を掛けて引っ掛けた女なら、ヤリたいと思っただろう。紗友美もヤラせる気だ。だが、今の早田はあまり情欲を満たしたい気分にはなれなかった。
「紗友美ちゃん」
「はい?」
 紗友美は惚けたような声で返事をする。
「……長谷ってさ、酒強いの?」
「何でですか?」
「いや、中学高校の時以来で、酒飲む歳になってから会ったの初めてだったからさ」
「んー……」紗友美は少し考えたあと、「強そうに見えるんですけど、たぶん、そんなに強くないんだと思いますよぉ。私と行く時も、セーブしてる感じで。そこまで強くないの自分で分かってる感じでした」
「そうなんだ……」
 内堀通りから勢いよく車が抜けてくる。空車のタクシーが何台も通り過ぎたが、早田は手を上げなかった。
「どうしたんですか?」
「……いや、長谷のヤツ、結構飲んでたなと思ってさ」
「あー、そうですね……。私たち、イジり過ぎちゃったかもっ。ムキになって飲んじゃってましたね」
 早田と共謀して紅美子をからかった事が、まるで業を一にしているようで紗友美は嬉しがっていた。
 そうなんだ。からかったらきっと紅美子はたくさん酒を飲むだろうと践んだんだ。
 早田は見上げる紗友美から顔を隠すように通りを眺めて溜息をついた。
 あの人の力は社内でも社外でも強大だ。俺は井上さんに気に入られている。あの人は俺の、人に知られずに意図通り誘導するスキルを買っている。昔からそういう事が得意なのは自分でもよく分かっている。俺は口先だけの男だ。俺にはこれしかない。あの人の指示は絶対なんだ――。
 早田は漸く手を上げてタクシーを停めると紗友美を乗り込ませた。自分も乗り込む前に振り返り、さっきまで居た高層ホテルを見上げた。……悪い、長谷。


 紅美子はなわとびをしていた。なわとびは得意だし、好きだった。一人でもできるし、縄にかからないように、それだけに集中しているうちに時間が過ぎていく。


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