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逃亡記
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逃亡記 2

「そ…それは有り難いお話なのでございましょうなぁ…」
「何だ?不服か?」
「いえ、とんでもない!…ただ、あまりに急なお話で、いまいち実感が湧かぬのでございます。お奉行、申し訳ございませぬが、お返事まで二、三日ほどお時間を頂けませぬか?」
「うむ、普通ならば大喜びで即答する所なのだが…欲が無いというか…まあ良かろう。それでは三日後に改めて答えを聞かせてもらうぞ。それまで良く考えておくと良い」
「ははあ、有り難うございまする」

その晩、俊明は妻の千沙(ちさ)にこの話をした。
佐藤家の一人娘である千沙は十七歳。
大美人という程ではないが、飾り気の無い素朴な美しさを持った女である。
両親は既に無く、二人暮らしだ。
子供はまだ授かっていない。
「…という訳だ。私はどうしたら良いのか分からぬ。千沙、お前はどう思う?やはりお受けした方が良いと思うか?」
「あなたのお好きなようになされば良いのですよ。私はどちらを選んでも構いません。あなたに従いますよ」
「そうかぁ…それが決められなくて困っているからお前の意見を聞きたいんだがなぁ…」
「それならば言わせていただきますが…お奉行様には申し訳ありませんが、このお話はお断りした方がよろしいかと思います」
「ほう、なぜそう思ったんだい?」
「あなた、本心では今のお仕事を続けたいと思っておいでなのでしょう?勘定方へ行こうと思うのは、出世して私に楽をさせたいと思っているから…そうではありませんか?」
「…参ったな、千沙…お前には私の心が解るのかい?」
「ええ、あなたの考えなら大体お見通しですよ」
そう言って千沙はクスクスと微笑んだ。
俊明は言う。
「そうかぁ…それなら本心を言うが、私は今の仕事が好きだ。日の当たらない仕事だし稼ぎも少ないが、確かに藩政の役には立っている。それに薄暗い書物蔵の、あの雰囲気も何となく好きなんだ。あそこには貴重な古書や書画の類も収蔵してあってね、そういうのを時々一人で眺めるのも楽しみなんだ…」
そう語る俊明の表情は実に楽しげな物だった。
「…ほら、答えは初めから決まっていたんじゃありませんか。私はあなたに好きな事を我慢させてまで贅沢をしたいとは思いませんよ。それに佐藤家は元々書物方同心だった訳ですし、何の不満もありませんよ」
「千沙…済まんな」
「良いんですよ」
「これからも二人で、貧しくとも共に仲良く暮らしていこう」
「いいえ、どうやら三人になりそうですよ」
千沙は微笑みながら自分のお腹を撫でて言った。
「なに!?千沙、まさか…!!」
「ええ、出来たようです…」
「そうかぁ…でかした!でかしたぞぉ!千沙ぁ!」
普段はあまり感情を表に出さない俊明であったが、この時ばかりは頬を紅潮させ、目に涙を浮かべて千沙を抱き締めたのであった。

この事によって俊明の中に新たな考えが生まれた。
(そうだ…生まれてくる赤子のためにも父である私が少しでも多く稼いで楽をさせてやりたい…)

翌日、登城した俊明は奉行の元へ赴いて返事をすべきかどうか迷っていた。
勘定方への移動の話を聞いた当初は、迷いながらも承諾する方向に気持ちが傾いていた。
だが千沙が自分の好きにして欲しいと言ってくれて、やはり書物方に残ろうと思った。
だが直後に千沙の妊娠を知った今、また心は移動の方へ傾いている。

迷った末に俊明は、今日は結論を出さない事にした。
書物奉行には三日間待ってくれと言ってあるのだ。
そう急いで決断を下す必要は無いだろう。
あと二日、じっくり考えてみてからでも遅くは無い…。

俊明は気持ちを切り換えて職務に取り掛かろうとした。
…だが、そうは言っても仕事中など、ついつい考えてしまう。
(男の子かのう…女の子かのう…名はどんなのが良かろう…親子三人となれば今の家は手狭になるかも知れぬ…今から新しい家を探しておくか…いや、ちと気が早かったかな…)
自然と笑みが漏れる。
「…佐藤殿?佐藤殿?聞いておるでござるか?」
「…はっ!も…申し訳ござらん!ちと考え事をしてござった…」
「ははは…これは珍しい事もある物でござるなぁ。なにやらニヤニヤとしておったが、何ぞ良い事でもござったか?」
「いやいや、それ程の事ではござらん。それより、今日はどのような記録が入り用でござるか?」
「うむ、ある村で治水工事をしたら川の流れが変わり、隣村に被害が出てしもうてのう…」
いかんいかん…浮ついた気持ちで仕事を疎かにする事は許される事ではない。
俊明は慌てて気を引き締めた。

「さて…藩内の治水に関する記録は確かこの辺りでござったかな…」
俊明は蝋燭立てを手に書物蔵へとやって来た。
書物蔵は城内で火災が発生した時の事を想定し、他の建物から離れた場所に土蔵を作って用いていた。
中は至る所、書類、書類、書類の山。
各部署で作成された行政書類は数年間は作成元で保管されており、置き場が無くなると書物方へ回される。
それを俊明たち同心が寄り分けて油紙で包み、判りやすいよう簡単な見出しを付け、この蔵に仕舞う。
数百年間、ずっと…親から子へと受け継がれて来た仕事である。
(この古紙の匂いとももうすぐお別れかぁ…そう思うと何だか感慨深い物があるなぁ…)

そんな事を考えていた時だった。
彼は蔵の奥にもう一つの灯りがある事に気付いた。
俊明以外にも誰か蔵の中に居るようだ。

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