六花 9
この男に借りを作るのは嫌であったのに。
「怖い思いをしましたね。大丈夫ですか。」
刑部はそっと肩にかけていた手を離した。
亜理礎は悔しくて下を向く。
昼間、偉そうなことを言った割にあっさりと男に組み敷かれそうになっているところを見られてしまった。
「なぜあんなところに一人で迷い込んだのです?」
優しく刑部は聞くが、亜理礎は応えない。
「また一人で昼間のように王宮を冒険しようとでも思ったのですか。」
刑部は深く溜息をついた。
「これに懲りたら、一人歩きはしないことです。あの者達も悪い者ではないのですが、いかんせん気が荒い。王宮の外もまだまつろわぬ者どもがたくさんいます。いくら武人とは言え、剣を取り上げられ、数人の男に押さえ込まれれば敵わないことは分ったでしょう。」
そんなことは分っていた。
女だてらに武術を始めた頃から、分っていたことであった。
それでも父の役に立ちたいという一心でここまでやってきたのだ。
そして自信もあった。
それなのに……
「約束してください。もう一人で出歩かないと。」
刑部は優しく亜理礎の頬に手を沿えて、上を向かせる。
その目に涙を浮かべているかと思ったが、その目は強い光を湛えるばかりで、水分と思しぼしきものはなかった。
「助けていただいたことは感謝しております。しかし私はここで色んなものを見なければならない。ですからそれは約束できません。」
はっきりと宣言する亜理礎。
強い強い声。
強い強い意思。
カタカタと肩は震えているのというのに。
「それにおかしいと思いませんか?王宮で私がこのような目に合うという事がです。王宮の風紀は乱れている。大王ではない者がのさばっているということでしょうか。それとも大王自身の好色が伝染して、あのようなことが日常的に行われているということですか。だいたいにして、そしてあの童女は一体何者なのです。明らかにおかしいでしょう。」
羞恥を隠すように亜理礎は捲くし立てた。
刑部はその目を覗き込むと、獲物を狩る動物のようにそれは艶やかに輝いている。
何かを守ろうとして、強くあろうとする者。
そのためには、自分の身など投げ打つ覚悟の者。
どうして自分はこういう者に抗い難い魅力を感じてしまうのだろうか。
刑部は亜理礎を抱きしめたい衝動にかられていた。強く守りたいという気持ち。
もしかしたら、その手で、この媛を殺さなければならない日がくるかもしれないというのに。
その確率は決して低くないと思うのに。
刑部は深く息を吸い込んだ。
「その時、あなたは私を裏切り者というのかな。」
亜理礎の耳に聞こえない位小さく呟きながら。
「え?」