PiPi's World 投稿小説

吹けよ暴風、荒れよ台風
その他リレー小説 - 戦争

の最初へ
 11
 13
の最後へ

吹けよ暴風、荒れよ台風 13

 河川運用が前提で航洋性能が不足していたことや、支那事変終結後は長城以北へのいわば引き籠りを決め込んだため、使いどころを見いだせなかったことなどから建造後わずか数年で大半の艦の解体が決まった。国外への売却も模索されたが、引き取り手はタイと満州国だけだった。タイと満州国では海防戦艦の代わりとして、沿岸防衛に使用された。
 実のところ、大陸での権益保護と昭和恐慌下の景気対策が目的で建造された艦で、海軍でも汎用性の無さから「政治によって作られた艦」として当初の評判は良くなかったのだ。
 それでも、前弩級戦艦の30p砲の威力は旧式であっても陸戦では十分に強力で、海軍はモニター艦の対地攻撃で結構株を上げてもいた。
 モニター艦や旧式艦の解体で捻出した資材は、オリンピックなどの建設資材として景気浮揚に活用されることになる。
 砲艦外交とケインズ経済学的な発想で建造され、そして解体されるモニター艦だが、現場の将兵にとってはよく知らない経済学より、自分達が乗り組んで戦った艦への愛着が先に立つもので、苦楽を共にした艦があっさり解体される事で残念がる者が多かった。




 ここで、先に少し触れた三菱の航空機開発にも目を向けてみたい。オリンピック観客輸送を狙った日本初の本格的な四発大型旅客機として開発されたMC-40。
 設計者は九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機を開発した本庄季郎技師である。
 自社の独自企画による開発の旅客機で、途中から、当時の日本のフラッグキャリアであった大日本航空が国策的に関与してきたものの、厳しい要求性能を出される陸海軍機より伸び伸びと開発できたと本庄季郎技師は戦後に回想している。
 エンジン選定では、初期型では1500馬力の火星一〇型の四発ですんなり決まった。将来的にはより大型大出力のエンジンを載せられる余裕を持たせてもいた。
 開発開始時点で量産が始まっていた九六式陸上攻撃機より随分と大きな機体でもあり、一式陸上攻撃機の開発と並行して本庄技師達は開発を行っていたが、大きな機体を上手く操舵できるようにする操舵系の設計と製造では難渋する場面もあった。
 それでも川西がすでに四発の九七式飛行艇を開発成功していたこともあり、自分たちに出来ないはずはないとばかりに一つ一つ解決して、ともかくもものにした。
 本邦では前例のない大型機なので、空港の格納庫もより大きなものを用意する必要が生じるという問題があった。
 そのため全長・全幅はむやみに大きくしておらず、全長26m、全幅33mとなっていた。
 客室容積を大きくとるため、同時期に開発していた十二試陸上攻撃機、後の一式陸攻と同じ葉巻型の胴体となったが、こちらはさらに大きく太くなっている。通常の旅客機としては最大80席を配することができ、これはDC-4に迫るものであった。
 だが最大の問題は主脚(ランディングギア)だった。これだけの大型機を支える主脚を造るのは、実は欧米でも結構難渋した問題だったからだ。

SNSでこの小説を紹介

戦争の他のリレー小説

こちらから小説を探す