吹けよ暴風、荒れよ台風 11
大阪航空工業が暴風の開発に邁進して、三菱がハ50やMC-40旅客機といった野心的な計画を推し進め、そして日本がオリンピックを目指して盛り上がっていた頃。
中国大陸から手を引いて満州・朝鮮の経営に集中した結果、アメリカとの関係はやや改善されていた。
中国進出の足場として、日本にも拠点を設けるアメリカ企業も現れ、日本との合弁事業に入る企業も現れた。
日中和平の折、建前はともかく実質では中国と満州を別にしたため、満洲国の認可を受けた企業は満洲に進出したが、多くは日本企業か満洲企業との合弁であった。
中国進出の方は、国民党政権と交渉してくれというのが日本政府の立場で、国民党の意向次第…ではあったが、国民党と共産党との関係は早くもひび割れ始めていた。
日本という共通の敵が手を引いたのだから、ある意味では当然の話であり、経済発展の為にも、国民党は国内の安定に国力を傾注せざるを得なかった。
満州防衛に兵力を集めた結果、日本陸海軍ともに近代化は促進された。
陸軍では師団の増設の必要が薄れ、一つ一つの師団の装備の質を高めたり、弾薬備蓄の増量や輸送力の強化など、兵站面の改善に目を向ける余裕が増したからだ。これには景気対策の意味もあった。
先述の通り、昭和恐慌以来の不況は支那事変による緊急動員で多くの軍事物資が発注されたことで公共投資の効果を生み、日本の景気はある程度良くなった。
とはいえ、短期決戦で終わったため財界も、満州への投資を加速していた。
だが経済官僚達も財界もそれだけでは足りないと、次なる景気刺激の機会を猛烈に欲していた。だからこそ昭和15年にオリンピックと日本万国博覧会、それに皇紀2600年記念行事を行う事で景気の浮揚を図っていた。
メインスタジアムに予定された駒沢には、ゴルフ場跡地を流用して競技場が新設された。
東京やその周辺各地で、競技施設の建設や拡充、それに鉄道や道路など、インフラの整備も進められた。勝鬨橋などはその一例である。
晴海では日本万国博の同時開催に向けた建設工事が行われ、建設ラッシュが日本経済を湧き立たせつつあった。これも支那事変が短期終結したことで、資材の調達は容易になったからでもあった。
鉄道省もガソリンカーやディーゼルカーによる高速列車の可能性を追求し、様々な試作車両を送り出したが、技術的な問題もまだまだ多かった。