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太平洋の荒波
その他リレー小説 - 戦争

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太平洋の荒波 30

小澤中将は十分な効果を得たとして、攻撃隊を収容するとラバウルへ引き揚げた。十三試艦戦の初出撃からフィジー空襲までの戦いは後に第一次南東太平洋開戦と呼ばれる。
「作戦は失敗か・・・」
アメリカ軍機動部隊を発見すら出来なかったため、第二航空戦隊司令の山口多聞少将は残念そうに呟いた。
山口少将は戦術的に勝ったとしても戦略目標を達成できなかったことを「負け」と判断したのだ。

さて、機動部隊はトラックで給油の後、呉に入港した。隊員達には休暇が出され、英気を養ってもらうこととした。その間に「飛龍」「瑞鶴」がドッグに入り、対空火器強化改装を行うこととなった。「飛龍」「瑞鶴」の改装完了は2ヶ月ほどかかる見込みである。

4月1日、潜水艦による補給を受けた二式大艇が3機ハワイ空襲に向かった。史実の「K作戦」と同じである。しかし戦果は敵機3機破壊、発電所破壊と言うそれなりのものだった。
4月5日、ラバウルがB17による空襲を受けた。2式陸上偵察機の胴体上に、20ミリ機関銃2丁を斜め上方に向けて付けたいわゆる「月光」戦闘機がデビューした。
「敵機発見。」
「例の戦法だ。」
「了解。」
ズドドドドドドド
ドカーン
敵大型爆撃機の下にもぐりこみ20ミリ機関銃を打ち込むのだ。これにより高高度を飛ぶアメリカ軍の4発爆撃機を撃墜しやすくなった。
機動艦隊の帰還直後、翔鶴に乗っていた山岡少佐、村雨中尉ら十三試艦戦の搭乗員9名と、担当整備員たちは翔鶴を離れ、十三試艦戦の生まれ故郷である大阪航空工業の貝塚飛行場にいた。貝塚町(昭和18年5月1日市制移行)と岸和田市の境界を挟んで、岸和田市には大阪航空工業岸和田工場があった。

「随分増えたな。」
「はい。順調に開発が進んでいるようですね。」
山岡少佐たちの前には、自分たちの乗っている9機のほかにも多数の十三試艦戦の試作機や量産試験機がひっきりなしに離着陸している。
 
さて、まずここでは読者一同に大阪航空工業について説明しなくてはいけないだろう。
この会社の設立は昭和5年。これまでは独自開発機は九八式練習機だけで、他社機のライセンス生産や生産協力に徹していた会社だった。
軍縮条約明けの無条約時代を迎えての会社の総力を挙げた野心的な次世代機計画として陸海軍に売り込んだ、そして海軍の取り上げるところとなった設計案、それが十三試艦戦である。
十二試艦戦(のちの零戦)の後継機の候補として開発がスタートしたこの機体は先述の通り艦戦と艦爆を統合を目指したものである。

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