飛剣跳刀 58
「う、うわ、……っっぎゃあああぁ〜〜っ!!」
と、文字に表せばこんな感じの声を、ティンバロはあげていた。
穴の向こうには、何者かがいた。そしてそいつが、彼の突っ込んだ頭をわしづかみに、グイとばかり、凄まじい力で引きずり寄せたのであった。
「は、離せっ、くそったれが!」
たちまちティンバロは暴れだし、掴まえている手をもぎ離そうとしたが、その力はいっこうに緩まない。ただ、髪が引っ張られて頭皮が痛むばかりである。
「いて、いてっ、うぎゃああ!」
またも、けたたましい声が彼の喉からあふれたのは、言うまでもない。……が、すぐに。
「……?」
キョトンとして、ティンバロは立ち上がっている。頭頂から、突然に手は外れていた。
手の主は誰か? と見れば、そこに坐り込んで、凍り付いたようにさっきまでティンバロを捕まえていた己の、ただ一つの手を眺めているのは、黒衣隻腕の男――丁霊龍である。
丁霊龍が呆けたように見つめているのは、中指の先に噛み付いている蜘蛛、さっきまではティンバロの頭にくっついていた、あの砂蜘蛛だ。
「…噛み付いて、る?」
この蜘蛛は飼い蜘蛛で、だから人には噛み付かないのではなかったか? それとも、ティンバロの頭ごと、力任せに引っつかまれて、さすがに命の危険を感じ、本能がよみがえったか?
丁霊龍が、うなった。中指の先端は、ぞっとするような暗緑色に変じている。砂蜘蛛は頃やよしと判断したか、そこから離れると、恐るべき跳躍力でティンバロの頭へ跳び戻ってきた。
一瞬、ぎくりと固まったティンバロだが、いま人間を噛んだ猛毒の蜘蛛は、彼には明らかに親愛の情を抱いているらしい、頭の上で居心地よさ気にうずくまって、動かなくなった。
丁霊龍が、凄まじい顔色でそちらを見、身を起こして詰め寄ろうという構えをみせた。ティンバロが蜘蛛に気をとられた刹那である。出遅れたティンバロは「殺られる!」とばかり肝を冷やし、脚から力がぬけてへたりこんだ――が、同時に丁霊龍もまた、再び坐りこんでいた。
「……?」
何のつもりだ、と見つめるティンバロを完全に無視して、丁霊龍は胡座をかいた姿勢でただ一本の腕のみ前にさし伸ばし、目を閉じてしまった。全身から異様にしずかな気配がたちのぼって、辺りを満たてゆく。
……ポツ、とかすかな音を聞いて、ティンバロははっと気付いた。
丁霊龍の指先から、どす黒い血が流れだし、雫となって地に滴っている。しかも、しばらく見ていると、蜘蛛に噛まれた中指からは、毒の緑色が徐々にうすれてゆくようだ。