飛剣跳刀 41
まさか、笑いたくて笑ったわけではない。しかし、それにしちゃ自然体、まるで親しい人間にやっとめぐりあえたとでもいうような表情だ。
…もっとも、忍者の芸は忍法だけに限らない。婉然たる笑みで相手につけいるのなんて、芙蓉にとっては歳が片手に満たぬころから馴染んだ技であった。
「おじさま、こんばんは。…星でも眺めに出かけていらしたの?」
さしもの丁霊龍が、すぐには反応できなかった。
──俺は、水の精の幻でも見ているのか?
少女の美しさに加えて、あまりに予想外なその行動と台詞は、こんな妙な考えすら浮かび上がらせてくる始末である。
「あのね、おじさま?あたし…人を捜してるの。こっちから声が聞こえたような気がしたんだけど、…ひょっとして、ご存知ないかしら」
ニヤニヤしつつ、丁霊龍が答える気になったのは、この少女ほどの美しさならば殺す前に多少眺める価値はあると考えたのと、また、話し相手が変貌した瞬間にそのほうが驚愕も大きかろう──従って、表情も見物だろうという計算に基づく。
「どんな奴だ?」
「…こっちに、来て。あんまり大きな声を出すと、またあいつが来る。さっき、せっかく運よく霧が張って逃げられたのに」
自分がやったくせ、そんなことをいって、芙蓉は丁霊龍を手招きした。
「ほう、色々と面白いことがあったのだな?…さあ、話せ。探し人はどんな奴だ?あいつ、というのは誰だ?」
「イヤ。話さない。そこじゃ遠すぎるもの」
変な娘だ。思いつつ、丁霊龍は少女の真ん前までいって、ご丁寧にしゃがみこんでやった。
「ほら、これでよかろう」
この時──会話で間をもたせつつ、芙蓉はあれこれの思案を廻らし、さらにさっき耳にはしたがまともに考え合わせずにいた…おそらくは目の前の男の声をも思い返して、次の返答をしたときには、やることは一つに絞られていた。
「いいわ。…あのね、あいつっていうのは、白い服を着た…」
いいも果てぬ、瞬間であった!
芙蓉の片手に、太く平たい針にも似た──柳葉針が現れた。袖口から滑り出したもの…何のためかは、聞くも愚かだ。
様々に考えた、その結果、こいつは自分に襲いかかってきた女の一味、少なくとも面識のある仲に違いないと判断して、ならば理不尽と手の悪辣さは想像がつく…従って、やられる前にやるにしかず。
が、丁霊龍のほうもさすがであった。ちらと僅かに芙蓉の腕が妙な動きをしたと見た瞬間に──あるいは殺気を感じたものかもしれないが、弾かれたように跳び退っている。芙蓉の柳葉針は、かすかに片腕をかすめただけだ。
「…っち!」
外見に似合わぬ舌打ちをしつつ、芙蓉は深追いしなかった。この一撃をかわしただけでも相手の腕はただならぬものと知れたし、そうなれば長く相手をするのは賢くない。
芙蓉の躰が、すう…と後ろにさがった。丁霊龍がそれを見て息をのんだのは、芙蓉の〈後ろ〉にはただ水面があるばかりだったからだ。まさしく彼女は、霧のはれたあとに広がったこのオアシスの水源、よくみればかなり広々とした湖の上を、まるで玻璃の板か何かみたいに滑ったのである。
が、すぐに丁霊龍の顔は例の笑みを取り戻し…なんと、彼もまた、水面へと滑り出していたのである!