心恋 2
今日もまたいつもと同じ電車に乗るため、自転車を走らせる。駅へ向かう途中、ある平屋の庭には百日紅が花を咲かせていた。足を止め、淡い紫色の花を見上げていると、もう夏の日差しが雲間から覗いている。
手をかざしても、太陽の光は指の隙間を通り抜け、私を覆ってしまう。
「暑っ…」
もう梅雨は明けたのか、それともほんの中休みか…
いずれにしても、暑い。
私はまた自転車を走らせ、駅へと急いでいった。
「ユカコちゃん。」
クーラーの効いた電車内で聞き覚えのある声が耳をかすめる。彼だ。
「あっ、桧山さん。おはよう…ございます。」
(今日、私…誕生日なんです。)
挨拶を交わしながら、私は心の中で呟いた。以前、飲み会でお互いに誕生日を明かしたが、たぶん覚えてないと思う。
「おはよう。今日、誕生日だったよね?おめでとう」
隣の吊り革に掴まりながら彼は唐突に言った。
「…覚えて…?」
私はびっくりして言葉がそれ以上出てこない。
「ちゃんと覚えてるよ。」
彼が微笑んでそう答えた時、今日一番に彼に会ってよかったと心から思った。
「来谷、今日誕生日?」
「えっ?三十路?」
「大丈夫、見えないよ!」
「とうとう仲間入りだね」
会社に着くと、今日だけはみんな過敏に反応する。
片や冷やかし対象。片や腫物に触るような反応。
(ちゃんと“おめでとう”って言ってくれたのは桧山さんだけ…)
「…ひ…や…まさん」
階段をひとつ、ふたつ降りながら、私は昨日と同じように、呟いてみる。ここも少し反響して、くぐもった声として放たれた。場所がどこであろうと、やっぱり悲しくなった。
(だめ、泣きそう…)
昨日から、なんだか急に感傷的になった気がする。
今までこんなに考えたことなかったかもしれない。
がむしゃらに働いて、恋も適当にして。その先のことなんて、考えなかった。
「あ〜、もう仕事仕事!」
私は今降りてきた階段を駆け足で上がり、自分のデスクへ慌てて戻った。即座に仕事モードに入る。
「3時までにコピーして、第二会議室まで持ってきてね。」
「この資料、手直し済んだから、田中さんの受け持ちエリアに蒔いて。」
「部長、書類に目を通して押印お願いします。」
「お世話になっております、Abendの来谷です。今、お時間よろしいですか?…打ち合せの件、来週火曜日11時からはどうでしょうか?…はい、では火曜で。はい、失礼いたします。」
1、2、3…カチャッ。
電話は3秒置いてから切るのが私の鉄則。
「ふぅ…」
立て続けに仕事をこなして、ようやく一段落。
両手を後ろに広げ、大きな伸びをする。顔も後ろを向く形に反り返ると、目の前に…つまりは席の後ろに、桧山さんが立っていた。