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媚薬の罠
官能リレー小説 - レイプ

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媚薬の罠 936

ローマの宗教政策は基本的には寛容であり、ローマの神々や神格化された皇帝の像を礼拝しさえすれば、土着の宗教は承認された。ただ、厳格に唯一神を奉ずるユダヤ教だけは例外とされていた。
キリスト教がユダヤ教の一派とみなされていた間は、皇帝礼拝を免除されていたが、別の宗教であることが明らかになると法的規制が強められるようになった。キリスト信者が一切の偶像礼拝を拒んだからである。さらに、信者の礼拝集会は人肉を食する秘密結社と噂が流れ、キリスト信者に対する人々の嫌悪をあおったことも迫害の嵐を激しくした一つの要因である。
迫害は初めは地方レベルで、しかも散発的であった。ローマ帝国が、国家の方針としてキリスト教に対して本格的に弾圧を加え始めたのは、3世紀半ばのデキウス帝からである。この時にはアレキサンドリアの神学者オリゲネス、カルタゴの司教チプリアノなどが殉教した。さらに4世紀初頭、ディオクレチアヌス帝は帝国各地の教会堂の破壊を命じ、キリスト信者に棄教を迫った。
迫害は毎回、突発的かつ短期間であったが、そのたびに多くの棄教者が続出し、迫害の終息後には教会内部に深刻な問題をもたらした。
ひとたび信仰を捨てた者は、以後教会の交わりに永久に復帰できないのか、あるいは、このような者にも救いの道がまだ残されているのかという議論が、信者たちのあいだで起きた。
浮気したバートナーを許すか、別れるか。現代でも協議され、どんな状況だったのか、きっかけは何だったか、やり直したい気持ちがあるのか、などなど聴取されるように、国教と認められる前のキリスト教の信者たちはローマ帝国の迫害によって、自らの意思を仲間たちに語る必要があった。
言葉で自分を表現することもまた、剣や格闘だけでなくローマ帝国によって鍛えられたといえる。
これをめぐってドナトゥス派の厳格主義が現れたが、結局、すでに指導的な地位にあったローマ教会をはじめ教会の主流は、背教者にもゆるしの道が開かれているということで収拾をみた。
コンスタンチヌス大帝の治世に313年の「ミラノ勅令」をもって、ついにローマ帝国はキリスト教を合法的なものとみなした。
以後、ローマ帝国と教会との関係は急速に改善され、日曜日はキリストの復活の日として国家の休日となった。
迫害時代に教会が被った損害には、国家賠償が支払われた。さらに4世紀の終わりに、テオドシウス帝はキリスト教を国教と定めるに至った。
こうして200年以上に及んだ迫害の時代は終わり、かわって国権の手厚い保護がキリスト教に加わることになった。
紀元1世紀が終わるころには、イエス・キリストと直接交わった弟子たちは世を去り、教会は第2世代目の時代に入る。
各地の教会共同体の指導者に立てられた人々は、最初の使徒たちの按手によって信仰とあかしを受け継ぎ、信者の群れを導いていった。
使徒教父と呼ばれる彼らの代表的な人物として、ローマのクレメンス、アンチオケのイグナチオ、スミルナのポリカルポなどの名があげられる。またこの時期、信仰共同体のなかには司教、司祭、助祭など種々の奉仕職が分化し、定着しつつあった。キリスト教のなかに階級制が誕生した。ローマ帝国の軍隊の階級制とキリスト教の階級制。ふたつの階級前のなかに信者たちは身を置くことになる。
2世紀半ばまでには、キリスト教固有の信仰生活の形が整えられた。第一にキリストの復活の日、つまり日曜日は主日と呼ばれ、神の子の復活を記念して感謝の祭儀が行われた。
そこでは、旧約聖書や当時編集されつつあった「イエス語録」と使徒たちの手紙が朗読され、会衆は賛美の歌を歌い、司祭の説教に耳を傾けた。
キリストの最後の晩餐が十字架の購いと復活の記念として祝われた。
つまり、みんなで食事を一緒にしたのである。
第二に信者の群れに加わるしるしとして洗礼が定められた。それに先立って洗礼志願者には、一定期間の信仰教育がほどこされた。
第三に当時は信者たちは「キリスト者」と呼ばれたが、物心両面にわたって互いに助け合い交わりを深めた。食糧を分け合うことで、仲間意識は強まった。
しかし、こうした行動は周囲に秘密結社的な印象を与え、人々の敵意と警戒心を招く結果になった。
しまいに、人を殺して肉を食べているという噂まで流された。
これは、のちに魔女狩りの時に、魔女と決めつけられた人たちが、裁判で聖職者から同じことを言われることになった。

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