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媚薬の罠
官能リレー小説 - レイプ

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媚薬の罠 930

神が具体的な権力者として擬人化されたものではなく、信じて祈りを捧げることによって、想像力によってつかみとられてくるものとなり、空虚であるからこそ普遍的なものになった。
外部から呼びかけ指示を与え教えて導くものから、それぞれが神なるものを想像し、感じとり解釈することになった。

「Cogito, ergo sum」
(我思う、故に我在り)

フランスのルネ・デカルトは、哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。これはルネ・デカルトが「方法序説」の中で提唱した有名な命題である。
イエス・キリストの磔刑の逸話で、信仰の神という存在を擬人化されたもの、ノア、モーゼ、イエス・キリストという指導者としての代行者としての聖人と切り離すことになった。
我は神を信じる、故に神あり。
ということになる。
宗教改革でルター・カルヴァンの広めたプロテスタンティズムには「慈善」「禁欲」の推奨以外に聖書の活用を推奨している。
何か悩みがあった時に、祈りで気持ちを落ち着かせたあとで、神と対話するように聖書を熟読すること。聖書を熟読していて悩みの解決につながるヒントとなる言葉が必ずある。悩めるキリスト教の信者は、自分の悩みに関係ありそうな教えの言葉を発見することで、神はどんな人にも平等に、もちろん悩める私にさえも答えに導いてくれていると神に感謝の祈りを捧げる。
聖書を熟読した悩める信者は自分の奥底に眠る大切な記憶や秘密の欲望や人知れない感情、それを聖書の言葉からどんな罪にあたり後ろめたさをかんじるのか、信者が発見した真理を他者の聖職者に告解(懺悔)として語り聞いてもらう。
古代の宗教が法とわかりやすく結びつく君主制に見られる権力というものは、神の代行者である王が、信者でもある民の人々の身体を自由に拘束でき、自由に命を奪うことのできる、死に対しての権利を王の特権として握っていた。
その時代には神による神託を告げる王がなぜ罪となり、罰が与えられるかを語る必要があった。信者は受け身であり、与えられるのを待つ。罪や罰だけでなく、神の祝福としての報償もあり、自分が仲間はずれにされないことを、王の言動によって確認できた。自然の法の肯定だけでなく、自分の身の安全を確認できた。王であれ、神の前では平等であること。それは群れを統率する時に発生する、食糧の分配の不平等の不満もごまかせるものであった。穀物の栽培の生産量が少なく、備蓄される食糧=富は保存に限界があったことも関係している。神の代行者の王が分配を決め、信者は従うだけで考える必要もない。

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