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媚薬の罠
官能リレー小説 - レイプ

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媚薬の罠 927

他人に快感を与えること。それが生存の手段であった。どうすればもっと気持ちよくなれるか。縄文時代には技術が発展した。縄文人の男性は射精を我慢する技術があったという説と、キリスト教の聖職者たちからは乱行として禁じられた集団セックスが、神聖な儀式の祭として行われていた説がある。女性が男性とは違って何度も絶頂できるが、男性は射精のあとは小休憩が必要という性差がある。
性的な欲望が他の行動の意欲に昇華されるというよりも、群れのなかでの存在理由として認められるための性交も労働で神に捧げる奉仕という変換が、単純に性交が快感ということから社会システムによって、人の不安を解消するために行われた。仲間はずれにされる不安を解消することの手段に変換された。
この仲間はずれにされる不安と生存戦略の行動を欲望することで行う習性を社会システムによって、権力の維持に利用されることが抑圧である。

思想家で仏教の教祖ブッタの「スッタニパータ」には、こんな詩句が残されている。

四方のどこでも赴き
害心あることなく
何でも得たもので満足し
諸々の苦痛に堪えて
恐れることなく
犀の角のようにただ独り歩め。

音声に驚かない獅子のように
網にとらえられない風のように
水に汚されない蓮のように
犀の角のようにただ独り歩め。

今の人々は自分の利益のために
交わりを結びまた他人に奉仕する
今日利益をめざさない友は得がたい
自分の利益のみを知る人間はきたならしい
犀の角のようにただ独り歩め。

仲間はずれにされる不安があるのを認めた上で、群れのなかで搾取されて生きるのを離れて、社会のシステムから離れて生き残る手段もある。それは孤独な放浪となるために、結果として性交が不可能となる。その意味では禁欲である。
性交したいという性的な欲望を忘れるために、性交だけでなく、自慰も忘れるというキリスト教と共通する禁欲の戒律が仏教でもあった。
性交したければ、群れに所属しなければならず、群れのなかにいれば、社会システムの労働、生産、搾取といったものに関わることになる。
「犀の角のようにただ独り歩め」
という詩句は、犀の角=勃起した男性の性器という比喩と読めば、群れと権力の維持のためのシステムから逸脱した個人として独立して生きろという意味になるだろう。
欲望とどう向き合えばいいのかというときに禁欲を、キリスト教の聖職者たちと仏教の僧侶たちは信者に規範として説明したが、社会という人の群れに対する考えかたは、群れであることが前提のキリスト教と、群れから距離を取ることで不安を緩和する方法を仏教は示している。完全に孤立しては生きられない。とりわけ栽培された穀物を食べる時は、そこらに落ちているものを拾って食べているのではなく、必ず栽培した他人との関わりが必要である。
たとえば仏教では、瞑想の修行でただ沈黙し、考えることを止めて、個人で生きる時間を持つ、他人と関わるための言葉を発することを自粛する。

「お金持ちになりたい」
「モテたい」
「ネットで、フォロワーをもっと増やしたい」

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