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媚薬の罠
官能リレー小説 - レイプ

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媚薬の罠 872

社会のシステムの制御は、個人の自由な行動や思考に、これは正しい、それは間違っている、だから、みんなで同じようにしようという協調性でルール化する。
それでも、自由であり続けようとするならば、反社会的にして排斥できるように誘導される。
反社会的というのは、社会のシステムを壊そうとして規範を破るための目立つ行動してしまった人に対して使われる。
非社会的というのは、目立たないように他の人と同じ行動をしながら、独自の思考を隠している人である。しかし、非社会的な人は自分の正当性を証明しようとすると、つい反社会的な行動をしてしまいがちである。
マリア信仰を認められるまで続けた人たちは、バロック建築の教会を建て、キリスト教では聖典である聖書以外の布教は認めないという規範を破り、絵画や音楽まで作って、マリア信仰を広めてしまった。この行動はキリスト教をヨーロッパに流行らせたのだが、布教の方法が型破りだったので、バロック建築の教会はのちにかなりの数が破壊されてしまうことになった。
非社会的なマリア信仰の人たちは、祈り続けた。
マリア様を祈ることで、私たちはイエス・キリストに同時に、心からむきあっているのですと語り継ぎながら。
マリア信仰には、多神教の女神信仰が重ねられていて、それは女性に対しての母性や慈愛などへの尊敬や憧れがふくまれている。キリスト教のなかにある神罰の荒々しさや、異教に対する排他性に対して、それは疑問を投げかける祈りでもあるだろう。
グレードマザーの二面性は日本神話のイザナミの逸話に残されている。
母親には優しく慈しみ生み育てる肯定的な面と、子どもを抱え込みすぎ自立を妨げ、呑みこんでついには死に至らしめる面とがある。この両者には「包含する」ということが共通している。
イザナギはイザナミから離れ黄泉から生還することで、夫婦神ではなく自立した神となったとも解釈できる。
キリスト教のマリア信仰は、旧約聖書の神の信仰と新約聖書の救世主キリストの信仰をつなぐ類似と反復のつながりのなかで、多神教の女神信仰としての差異としてあらわれる。
神は人の罪のすべてを許す。
時には人には理解しがたい試練をあたえる。
神の二面性は、旧約聖書と新約聖書に何度も繰り返されて記されている。 
マリアという名の女性が、新約聖書にはもうひとり記されている。マグダラのマリアである。
キリストのそばには、母親のマリアと、恋人か妹のような弟子のマグダラのマリアがいる。

罪とは何かを、自分自身で思考し続けること。
それが姦淫の罪の問いについて記されていること。それは、その社会のなかでの性のタブーをどれだけ自覚していて、淫らなことだと感じる知識があり、妄想できる欲望があるのかという問いでもあるだろう。キリストは姦淫の女を連れてきた者たちの問いに答えた。
画家レンブラントの「キリストと姦淫の女」の絵画は、まるで演劇のスポットライトのように人物たちを浮かび上がらせている。
新約聖書ヨハネ福音書の逸話を題材としている。
ある女が姦淫の罪を犯し、ファリサイ派の民や律法学者らがその女の罪を問おうとイエス・キリストの前に連れてきた。この罪は律法では石打ちの死刑に値するとして、イエスにその刑を要請した。
その時、イエスは聴衆に言った。

「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

この言葉を聞いて聴衆は誰も女に石を投げることができず、イエスはこの女を許したという。
キリストがファリサイ派の民や律法学者と同じ答えを返すのなら、キリストが特別な存在としての価値がなくなる。
しかし、ただ女性に同情して「赦してやりなさい」と言えば、キリストは法に逆らう反社会的存在とされてしまう。

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