秘書の佐倉に緊張して、佐倉が「すいません、ありがとうございます」とプライドのぎりぎりの譲歩に無反応なら、佐倉は、ここぞというときに実力を発揮できない社員でリーダーではなくサポート向き、と判断できる。
貞人は軽く頭を下げただけで、何も言わない。「どういたしまして」と言葉を添えるか愛想笑いを浮かべれば、佐倉と対等。しかし、貞人は自分のほうが佐倉より社内の人間関係など関係なく、本質的には上なのだと、佐倉の心のプライドを砕いてみせた。
貞人は自分の職場の階で、すっとエレベーターから出ていく。
振り向きもしない。
秘書の佐倉などいなかったかのように。
（……私、あの人に、無視された？)
佐倉の秘書としての優越感は完全に失われて、自信を失った。これまで「社長の番犬」と陰では言われていても、上の立場として、ただの事務職よりも多く給料やボーナスをもらっていると優越感はあったし、自信を砕かれることは一切なかった。
貞人はそれを簡単にやってのけた。
会社から雇われた、見ざる、言わざる、聞かざるの警備員は、社員が何をしていようと、備品倉庫から備品を盗み出していたり、経理部や事務所の金庫から金を盗み出しているなどの犯罪がない限り、警備員がいるというだけで抑止力になるので雇われているとよくわかっている。
残業中の社内が、社内機密を漏洩したりしていないか調べるのは、警備員ではなく、この会社では秘書課に任されているのである。
貞人が残業している部署には、秘書の自分がいるので、他のところを見廻りするようにと、すでに佐倉は警備員に伝えてある。
貞人は佐倉の誘惑を無視して作業を続けている。貞人の同僚、平凡な男の杉下なら、佐倉の誘惑にはまって、仕事を放り出し、すぐに、下半身丸出しになるだろう。そうなれば、ハニートラップにひっかかった愚か者の末路、自主退社のリストラ対象者に認定される。
女に興味がないゲイと佐倉に判断されたら、他の会社のゲイのハニートラップにひっかかって、自社に致命的な被害をおよぼす可能性もあると、これもリストラされかねない。
貞人は秘書を使って会社のスポンサーどもから試されているのを、内心では、とてもめんどうだと思っている。
シャブの効果で眠気や疲労感は脳がシャットアウトしている。そして、とても勃起しにくい状態なのがわかっている。
（こういうことは、暇で炙りをやってないときにしてもらいたいものだな)
性欲解放全開な貞人なら、有給休暇を取り、いつも通りに出勤するふりをして、定時まてたっぷり、ラブホテルにこもって、秘書の佐倉に御奉仕してもらうところである。
「休暇中に社外で個人的に関係を持ちましたが、ふられてしまいました」と言い逃れできる。
佐倉に仕事を手伝ってもらう紳士的な対応では出資者のみなさんが納得しないのが、貞人にはわかっている。
自社株のうち、社長は３分の２を保有していることが望ましい。だが、実際、貞人の会社の社長は２０％しか保有していない。
社長の解任、合併や解散といった重要事項は、株主総会の特別決議といって３分の２以上の賛成多数によって決定されるのだが、これは全株主が議決権を行使した場合で、議決権を行使しない株主のほうが多い会社なら、２０％の自社株を保有しているだけで、なんとか社長をクビにされることはないというわけである。
極端に言えば、会社の株式の過半数をもたない社長は、どんなに一生懸命経営に取り組み、会社の業績を伸ばしたとしても、会社をクビになることがある。
そして、会社と雇用関係にある平社員なら、労働基準法により正当な理由なく解雇されないという保障があるが、会社と委任関係となる取締役にはそのような保障はなく、特別な理由のない解任も認められてしまう可能性がある。
社長に「業務妨害するハニートラップをするな」と苦情を伝えても、出資者たちがおもしろがってやらなきゃ別の人を社長にするから、と株主総会で多数決をされたら、社長はクビにされてしまう。
そういうルールで国が動いている以上、貞人は転職するか、株主側になるか、このまま労働者としてルールに従うしかない。見張りの秘書のおかげでセクシャルハラスメント・パワーハラスメントから救われましたという社員もいるのに、貞人はセクシャルハラスメント・パワーハラスメントのどちらも受けている。
ハニートラップに高坂貞人がはまるか、はまらないかで暇潰しに賭けぐらいやりかねない連中なのである。
（仕事が回ってくるのはありがたいことだが、経理部や労働組合から文句を言われても、残業代はしっかりもらうからな）
貞人は明日までに作らなければならない資料を完成させ、とりあえず威圧しておとなしくさせた「会社の番犬」の牝犬秘書の佐倉を満足させなければならない。