大陸魔戦記 87
「……うるさかったか」
振り上げた剣はそのままに、ジルドは目だけをそちらに向ける。
「…いや、そもそも寝てはいなかったからな。気にしなくていい」
――アグネスがいた。
部屋と中庭を隔てる窓枠に背中を預け、掲げられた剣を見つめている。
「…初めて会った時もそうだったが」
感嘆の息を漏らす。
「…恐ろしいものだ」
「剣がか?…いや」
巨剣を静かに降ろしながら、ジルドは自嘲気味に呟く。
「…俺が、だな」
ふと、ジルドの顔に影がさす。
怒りとも、悲しみともつかぬ、どこか虚ろなものを感じさせる、表情。
アグネスは思わず、しまったと顔をしかめる。
どうにも、主君が愛する男の心情は測り難い。露骨な皮肉や危機に対しても泰然としているのに、ふとした一言で不意に沈み込む。それが露骨でないが故に、なおわかりづらい。
「…すまない。また暗くなっていた」
ややあって、ジルドの表情は普段のものに戻る。
――こうやってすぐに戻るから、なおのこと、掴みがたい。
そんなアグネスの心情などいざ知らず、ジルドは剣を構え直す。
「……」
その様子に、何故か苛立ってしまう。アグネスは額に手を当て、思わず唸ってしまう。
「…わからん」
「…何がだ」
不意に浴びせられた言葉に、ジルドは眉間に皺を寄せる。
「…何故お前のような、何を考えているのかわからないような男に、ひめ…セリーヌが惚れたのか、だっ」
きっと目をつりあげ、アグネスは腕を組んで鼻を鳴らす。
まるで、わかっているくせに、とでも言うかのように。
「……俺も疑問に思っている」
剣を構えたまま、ジルドは目を細める。
「すまないが、君が納得いくような答えを出すことができない。少なくともセリーヌの心が、支え無しには潰れてしまいそうなほど脆くなっているのはわかる」
そこまで言ってから剣を下ろし、それを鞘に収めた。
「だが、何故俺を支えとする?正直、俺が聞きたい」
「…そうか」
不満げに息を漏らし、くるりときびすを返すアグネス。
「…セリーヌの様子を見てくる…」
肩越しに振り返るとそれだけ言って、アグネスは部屋の中へと戻っていった。
浴槽から上がる、白い湯煙。
といっても小さなものだ。宿の個室付き浴室に、それ程の贅沢はない。
小さな陶器の浴槽に入る己の姿をを見ながら、一体ジルドはどうやって入るのだろう、とその大きな身体を意地悪くも思い浮かべてしまう。