大陸魔戦記 72
常日ごろ纏う白銀の鎧は、今は馬車の中。
染めていない絹の軽装に包まれた姫の身体、その細い肩を、月の淡い光が頼りなげに照らす。
その白い服に、ぽたりと。
一滴の雫が、染みを作る。
気がつけば、溢れる涙。
「これは…」
違う。
そうセリーヌが言うことはなかった。
その唇を、ジルドの唇が優しく塞いだために。
情熱に駈られてするような激しいものではない。
快感を引き出す、舌を絡め合わせるものでもない。
ただ一度唇同士をそっと触れ合わすだけの。
ゆったりとした、長い刹那の口付け。
ジルドがその唇を解放しても、もはや姫は何も言わなかった。
男の胸に、顔を埋める。
その顔を隠して、初めて。
初めて、嗚咽を漏らした。
止まらぬ心の悲鳴が、唇から堰を切った川の水のようにあふれ出す。
「…私は、愚かだった。何もしてはいなかったのだ」
「それは、違うぞ」
「違くない」
ジルドの言葉に耳を貸さず、セリーヌは子供が嫌々をするようにその胸の中でもがいた。
「…セリーヌ」
しばしの逡巡の後。
諭すように、ジルドは呼びかける。
「一国の背負う、その重みがどれ程の物か、生憎俺は知らぬ。だがな」
そしてセリーヌのおとがいに手をやり、優しく持ち上げる。
「いろんな理屈をつけて、責務から逃げ出していった人間を、俺は山ほど知っている。少なくともセリーヌ、君は、そうはしなかった」
逃げようとする濡れた瞳を、じっと覗き込む。
「兵たちが剣を持って魔物と戦っていた間、君は君自身の運命と戦っていた。違うか?」
「…そう、なのかもしれぬ」
と。
反らされていた彼女の瞳が、初めて彼の瞳にその視線を返した。
絡み合う視線。
美しい翡翠色が、縋るようにジルドを見つめた。
しかし、それも刹那のこと。
「それでも、私は自分を許すことができぬ」
姫は顔を背けた。逃げるように。