大陸魔戦記 70
「過ごしやすい夜だな、気持ちが良い」
皇女は背を伸ばす。
夏ももう終わりという時期である。
晩夏の涼しげな風が、馬車の籠った空気で蒸された身体を冷やしてくれる。
「…確かに、涼しいな」
馬車に眠るアグネスを残し、二人はそこから少し離れた丘の斜面を歩く。
点々と生えるオレブ松の木が、月の光に照らされて、その鮮やかな緑色を青色に染めていた。
「ほう、もうそんな時期であったか」
ふと、セリーヌは立ち止まり、何かを注意深く探るように耳に手を当てた。やがて得心がいったように頷くと、後ろを歩くジルドを振り返った。
「知っているか? この時期から秋にかけて、リューンでは虫が鳴くのだ」
「…ほう」
「ほら、卿にも聞こえるだろう?」
耳を澄ませば、鈴の音が、草木の間から聞こえてくる。
「この音はシロメスズムシのものだな」
「よく分かるな」
「父上も若い頃は猟に入れ込んでいたらしい。昔取った杵柄とやらで、王宮で虫の音が聞こえるたびに教えられたものだ」
そういって笑いかけたセリーヌであったが、ふと顔をしかめてジルドの顔を見上げた。
「どうした? 浮かぬ顔をして。卿らしくもない」
「…この季節は過ごしやすいがな」
ジルドは、ゆっくりと口を開いた。
「まだ身体が夏の要領でやっているから、風邪を引きやすくて困る」
そして、あらぬ方を向いて、言った。
「無理を、するなよ」
わずかな、沈黙。
虫の音が、ころころ、と鳴く。
「…やはり、見たのだな」
「ああ」
涙の、跡を。