がくにん 57
雛乃の視線の先に立つとスッと戒もまた、別人と化した。
「その言葉、心からかたじけない。しごく結構、結構、結構!」
「ハムレット様っ。これらはみな、以前にいただきましたものでございます。実はずっと前から…………」
そこからしばらくの間、たった一人の観客の劇が始まった。
瑪瑙は歌舞伎や能楽ならまだしもこの手の劇は見たことがない。もちろん、『ハムレット』という劇も名前を聞いた事はあるがその程度だ。
しかし、二人の演劇は素晴らしいモノだと瑪瑙は感じた。
これが劇であるのかさえ、判別つかなくなる程である。
雛乃が演じるオフェーリアが戒演じるハムレットに必死にアプローチをかけるのだが、ハムレットはそれに対し、断るばかりか悪口雑言を言い放つ、という場面だと瑪瑙は理解した。
「…………今まで通りにしておいてやるぞっ?尼寺へ!行けっ!」
その戒の台詞を受け、雛乃はヨヨヨ……と崩れたところで二人は直立すると右腕を腹に添えて頭を下げる。
その動作で目が覚めたかのように瑪瑙は自然に拍手をした。
「…………どうだった?」
「わ、僅かな時間でしたが非常に引き込まれました。感服です………しかし……その……」
瑪瑙は沈黙に雛乃の意図が分からない、という意思を込める。
「う〜〜ん。やっぱりね……これだけじゃ、分からないか。よしっ。鼎さんに『ハムレット』の概要を説明しちゃうわ」
雛乃は戒が持っていた紙束を引ったくり、瑪瑙へと近付いた。
「ハムレットは王子なんだけど、王である父が死んで、その王位を叔父に取られちゃうの。しかも、母親がその叔父と再婚して、心中穏やかではない。そんな時、ハムレットの前に父の幽霊が現れ、自分が現王である弟―――ハムレットの叔父に殺されたって伝えるのよ」
そこで息が切れたのだろう、雛乃は一旦、口を噤んだ。
すると、いつの間にか脇に来ていた戒が差し出したミネラルウォーターのペットボトルを受け取ると喉を潤した。
「ごくごく…………んぅっ!これ、炭酸っ?しかも、すっぱいっ!」
「微発泡天然炭酸水、ナチュラルスパークリングミネラルウォーターだ。鉱泉水だから硬度が高く、酸味を感じるんだろう。それより、鼎さんに続きを話さないのかい?」
「ううぅぅ〜〜っ」
想像していた水とは違う飲料を渡された雛乃は恨みがましく戒を睨むが、仕方なく説明を再開する。
「………それで、それからというもの、ハムレットは気が変になったフリをして叔父への復讐をするかしないかに悩むの」
「そこで……やるか、やらないか、それが問題だ、という名台詞から先程のシーンに入るんだ。正直、僕はか……雛乃さんがそこから始めよう、と言い出さなくて安堵している。台詞自体は覚えたんだが、まだ、上手く演じられないんでね」
戒は雛乃から脚本らしき紙束を奪い返すとその台詞が載っているのだろう、ページに目を通した。
「で、オフェーリアは現王の側近である父に命じられ、ハムレットを探っていたのよ」