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エス
【純愛 恋愛小説】

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エム-8

帰りの電車、二人とも無口だった。百合の方が先に降りて、電車が発車してまもなくだった。
彼女からしばらく距離を置こうとメールが来たのは。
普段ならショックを受けるのに、俺は眼科が無かった事の方がショックだった。

最初から可笑しいと思っていた。
他の患者を見かけない事も、予約制の事も、何より俺自身で予約を取った事が無い事も。

百合には申し訳なかったが、数日前まであった眼科の事を、母親に尋ねたくて俺はメールの返事もせずにまっすぐに家へと向かった。
人ごみをすり抜けるように改札を出ると混みあっている商店街を避けて横道を走る。
家へたどり着くと鍵を出すのももどかしく、ドアチャイムを鳴らした。
しかし誰も出ない。
庭から見える室内は電気がついているのにも、関わらず。

仕方なく鞄から鍵を出しドアを開ける。
靴を脱ぎ捨てキッチンへ行くと、少し前までそこに母親が居たのが分かるくらいに、夕食の準備の真っ最中だった。
包丁が置かれたまな板の上には切っている途中のトマト。切り終えたきゅうりとレタスが入っているザルの下からは水がポタポタとシンクに滴り落ちている。
コンロは火こそ消えているものの、鍋からはカレーの匂いと湯気が充満し、炊飯器からは炊いている途中の湯気。

「母さん!」

大声で怒鳴る。
風呂場かトイレか、どこかにいるんだろうと思って。
それでも家の中は人っ子一人いないように静まりかえっていた。
俺はリビングへ向かう。
もしかしたら母さんが倒れているのかも、しれない。

しかし、そこには誰の姿も無く、妹の鞄と飲みかけのジュースと食べかけのお菓子。
そして付けっ放しのテレビ。

胸の鼓動が大きく聞こえる。
息が荒くなるのは全力疾走して走ってきたからじゃない。

何か事件に巻き込まれたんじゃないんだろうか。
そんな風に考えて背筋が冷たくなったとき、電話が唐突に鳴った。
体が一瞬大きく揺れて鞄を放り投げるとそれを乱暴に取り上げ耳にあてた。

横目に入ったテレビの画面。
そこに映った小さな少女の写真。

それを目にした時、頭が締め付けられるように痛んだ。

電話の向こうからは知らない女の声で、俺の名を呼んでいる。

「真くん、逃げてっ。早く!つかまっちゃだめ!!」

女の声は言葉として理解は出来ていたのだけれど、その言葉に耳を貸す事も無く俺はテレビの画面を見つめた。
頭痛はますます酷くなり、目が開けていられなくなりそうだった。


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