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つまみぐい
【その他 官能小説】

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愛しいマスコット-3


 駅を出たところで大都会の空を見上げて足を止める。今日からお世話になる会社のオフィスビルがすぐ目の前に立ちはだかっていた。周囲も銀色に輝く高層ビルばかりで、せっかくの青空がほんの少ししか見えなくて残念だなと思った。
 建物の入り口をくぐりながら果歩は朝の出来事を思い返した。ほかでもない、痴漢を捕まえてくれたビジネスマンの彼とのやり取りだ。
「後は俺のほうで警察に連絡しておくので、あなたは先を急いでください」
 と、彼は言ってくれたのだが、被害者である自分が不在では話にならないのではないか、と果歩は心配したのだった。とはいえ、痴漢に遭っていた時の複雑な心境を警察の人たちに証言するのも苦痛だし……。
「大丈夫、俺に任せて」
 自信に満ちた彼のその台詞に気圧されて果歩は深々と頭を下げたのだった。
「ありがとうございます」
 そして、名前くらいは訊いておくのが礼儀だっただろうかと今になって思う。何かの形で、助けてくれたお礼をしなければならない。でも自分は人見知りだし、きっと行動に移せなくてまた後悔するんだろうな……とかなんとか独りよがりの妄想をする。
「あの、乗らないんですか?」
 その声で果歩は我に返った。どうやら考え事をしているうちにエレベーターが到着していたようで、何人もの冷たい視線がこちらに浴びせられている。
「乗ります。すみません……」
 微妙な空気が漂うエレベーターで上層階まで上るとそこが果歩の会社のオフィスになっていた。途中で思わぬトラブルもあったが、どうにか遅刻しないで済んだから一安心だ。
「白石さん、ちょっといいかな」
 ほっとしたのも束の間、さっそく課長に呼ばれた果歩は硬い表情でオフィスの奥まで進み、今日からよろしく、との言葉だけもらって返事をする間もなく朝礼が始まった。
 果歩のことなど置き去りにして、すべての物事が秒刻みで進んでいく。そうしていよいよ新入社員が挨拶をする時が来て、果歩は緊張のあまり目のやり場に困ってきょろきょろした。
 すると、数人の新入社員の中に知った顔があることに気づいた。間違いない、痴漢から果歩のことを救ってくれた今朝の彼だ。清潔感があり、自己紹介をする時の姿勢には彼の誠実そうな人間性がうかがえた。名前は倉木と言った。
 次はあたしの番だ──果歩はわかりやすいくらいに頬を強張らせてあらたまった。今日という日に備えて挨拶の練習もやってきたし、緊張を和らげる「おまじない」もかけてきた。でも、いざとなると胸が詰まって言いたいことの半分も言えず、味も素っ気もないスピーチになってしまったのは言うまでもない。
 朝礼の後、果歩たち新人はさっそく研修を受けることになった。担当するのは人事部の岡部という肥満体型の男性だった。よっぽど暑いのか、この肌寒い時季にもかかわらず半袖のシャツを着ている。
「倉木さん」
 移動中、前を歩く長身の背中に向かって果歩は声をかけた。倉木は歩きながら顔だけをこちらに向けてくれた。
「今朝のこと、ありがとうございました」
「お礼なんていいよ。あたりまえのことをしただけだし」
「でも、倉木さんが助けてくれなかったら、あたし、どうなっていたか……」
 果歩は痴漢に体をもてあそばれて快感に酔った時のことを思い出した。あれは何かの間違いだと思いたかった。
「ほら、元気出しなよ」
 倉木に肩を叩かれて果歩は少しだけ気分が楽になった。彼に対する好感度が大幅にアップした瞬間だった。
 そんなことよりも、果歩にはもう一つ気がかりなことがあった。それは倉木の右の頬に貼ってある絆創膏のことだ。駅で会った時にはそんなもの貼ってなかったのに。
「倉木さん、その絆創膏は?」
「ああ、これね。いいんだ。気にしないで」
「ひょっとして痴漢……じゃなくて、あの男の人にやられたの?」
「まあね」
「ごめんなさい、あたしのせいで」
「大袈裟だなあ」
 と言って倉木は笑った。何だかわからないけれど果歩も彼につられて笑っていた。これが巷で噂の恋の魔法なのかもしれない、と恋愛経験の乏しい果歩は密かに思いを募らせた。


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