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つまみぐい
【その他 官能小説】

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花蕾の滴り-2


 雲行きが怪しくなったのは、道の駅を出発してから一時間が経過した頃だった。教わった通りの道順を辿っているはずなのに、どうしても目的地にたどり着けないのである。それどころか、さっきから同じところをぐるぐる走っているような気さえする。
「おっかしいなあ……」
 木漏れ日の射し込む急勾配の山道は、どこまで行ってもほとんど景色が変わらない。車がなければ間違いなく遭難していただろう。仕方がない、今回はあきらめて引き返そう。
 不可思議な現象が起きたのは、その直後のことだった。道路脇に停車させていた車のエンジンが、何の前触れもなく止まってしまったのである。
「おいおい、勘弁してくれよ」
 苛立つ気持ちを押さえ付けながら何度かキーを回してみるものの、エンジンが息を吹き返す気配はまったくない。やはり、ここまで来られただけでも奇跡だったのか。
「どうすりゃ良いんだ」
 と、フロントガラスから車外に目を向けた時に薄い霧のようなものが立ち込めてくるのが見えた。それは瞬く間に視界を埋め尽くし、やがて濃霧となって一気に押し寄せてきた。まったく、踏んだり蹴ったりとはこういうことだ。
 そこへ今度は、どこからともなく美しい旋律が風に乗って聴こえてくる。フルートの音色を想像させる、異国に迷い込んだような気品に溢れたメロディーが。
 うっとりと聴き惚れているうちに、だんだん霧が晴れてくる。運転席の背もたれから身を起こして外の様子に目を凝らしていると、見覚えのない一本の木が目の前にあらわれた。
 間違いない、あれが幻の桜だ──なぜそう思ったのかは自分でもよくわからない。強いて言うならば、その木が自分を呼んでいるような気がしたからである。
 おそるおそる車のドアを開け、あらためてその全貌を眺めてみる。地面から伸びた細い幹は桜のものと相違なかった。近づいて行って枝に触れ、匂いを嗅ぎ、開花しそうな蕾を探した。
「あった……」
 たった一つだけ、咲き始めとおぼしき桜の花を見つけた。ほころびの隙間から可憐な花びらをのぞかせ、恥ずかしそうにこちらを見ている。
 一分咲きにも満たないその桜に、しばし心を奪われ息をつく。人間で言えばまだ汚れを知らない未成年だが、もっと成熟して満開になればさぞかし雅な光景になるのだろうと思う。
「うん?」
 桜の木にばかり意識が向いていて気付かなかったが、生い茂る草木の中に登山道のようなものがあるのを発見した。そういえば来る途中にビジターセンターを見かけたし、人が通ったと思われる痕跡がいくつも残っている。
 これはひょっとすると山の神様の通り道では……いや、ありえない。良い大人があんな迷信を信じるなんてどうかしている。仮に神様の住居があったとしても、触らぬ神に祟りなし、近寄らないのが正解だ。
「さっさと戻るか」
 踵を返し、歩き出したところで車が動かないことを思い出した。
「とうとう神様にも見放されたらしいや」
 さて、どうするかな。往きは良い良い、帰りは怖い……という具合に交互に首を振りながらも進路を一つに絞り、桜の木を迂回するように登山道に向かって足を踏み出した。


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