名前の無い関係-2
「旦那さま……」
率直に告げられて、嬉しさに声が震えた。
ナザリオがそう思い込んでいたように、世の中には安楽で有閑な暮らしを望む人の方が多いだろう。
ディーナだって、過酷な労働や無慈悲な扱いを受けたくはない。
しかし……かといって、バロッコ夫妻のように他人から搾取して、自分は甘い蜜を吸うだけなんていうのも嫌だ。
もちろん、貴族やお金持ちが皆、あの夫妻のようだとは思わないし、有閑階級にもそれなりの苦労があると聞くが、やはり自分には合わないと思う。
ディーナが欲しいのは、やりがいのある仕事に、適切な報酬、適度な休暇や、日々のちょっとした楽しみ……カミルはそれらを、一番良い形と量でくれるから、今の生活がとても幸せなのだ。
「――で、次はこれだ」
カミルはポケットから、今度は小さな布袋を取り出してディーナの手に押し付けた。
渡された袋の口をあけると、中身はピカピカの銀貨。それを見て、今日は月末だったと思い出したが……。
「旦那さま、これは……?」
袋の中の銀貨は、どう見ても十五・六枚はある。給金には多すぎる大金だ。
ディーナが首を傾げてカミルを見上げると、こちらを睨むようにしかめられた赤い瞳と視線がぶつかる。
ほんの少し沈黙が流れた後、カミルが口を開き、心なしかいつもより低い声を発した。
「それは給金と、退職金だ。一方的な理由で使用人を解雇する時は、三ヶ月分ほどの金額を支払うのが一般的らしいからな」
―― |解 雇《ク ビ》 ?
ディーナの手から布袋が滑り落ち、飛び跳ねた銀貨が床一面に散らばった。
堪えなくてはと思っても、視界がみるみるうちにぼやけて頬を熱い水が流れていく。
カミルが今度こそディーナを不要になったのなら、大人しく立ち去らなくてはいけないのに……。
「す、すみません……今までお世話に……」
ところが、涙を拭って震え声で挨拶をしようとすると、焦りきった顔のカミルに、両肩を掴んでガクガク揺さぶられた。
「待てっ! 最後まで聞け!! 退職金はけじめとしてきちんと渡しただけで、給金も単に来月からは、名前が小遣いに変わるだけだ! 今後も俺がお前を必要としているのは、さっき契約の件を話して、先に解っているはずだろうが!!」
そう怒鳴られて、ディーナはようやく気がついた。
余りのショックで頭がまるで働かなかったが、カミルがディーナをこのまま解雇するのなら、夜猫へ護衛をしてくれるように契約を結ぶ必要もないはずだ。
小さく「あっ」と声をあげるのと、カミルがポケットからさっきの紙を取り出したのは、ほぼ同時だった。
「せっかく誤解を避けるために、話す手順も考えぬいたんだぞ! 見ろ!!」
突き出されたメモ書きは、何度も悩んで書き直したようだ。
上から線を引いて消された文字で、紙面のほとんどが埋め尽くされている中、端っこの一画だけが丸で囲まれ、カミルの綺麗な筆跡がそのまま残っていた。
「え、えーと……?」
囲いの中の文字を、ディーナはうろたえながら懸命に読む。
……もしも、自分が読み方を間違えていないのだったら、そこには矢印つきの短い文章が三つ、こう記されていた。
『夜猫との契約を話す → 小間使いを辞めさせる → 申し込む』
「申し込む……のですか? 何か……」
これだけではさっぱり解らずに尋ねると、すっかり赤面していたカミルは、また大急ぎでポケットに紙を突っ込み、顔を思いっきり逸らしてしまった。
ひょっとして、本当はメモ書きを見せないつもりだったのに、焦ってつい見せてしまったのかと勘ぐりたくなるような様子だ。
カミルは顔を逸らしたまま、しばらく肩を震わせていたが、やがて観念したように大きく息を吐き、またこちらへ向き直った。
「これからも俺と一緒にいろと、そう申し込むつもりだった。本当は、お前に小間使いを辞めさせて、これから別の関係になってくれと言いたいんだが……」
そう言ったカミルの声は、悔しさと寂しさが入り混じったような響きだった。
「ラミアには伴侶、人狼には番と、他の魔物はどれも、大切な相手を示す言葉をそれぞれ決めているのに、吸血鬼だけは昔から、それを持っていない……必要としないのが、吸血鬼の普通だ……」
カミルは深い息を吐くと、不意にディーナへとても真剣な目を向けた。
「だが、俺はどこまでも変り種だったらしいな。それを示す言葉も持っていなくとも、お前を特別な相手に欲しいと思うようになった。俺は吸血鬼だし、控えめに見てもお前に酷い扱いを何度もした……それでも、お前を…………愛していると言っても良いか?」
自分の耳が、ディーナは信じられなかった。
カミルは今、綺麗な模造品を気楽に寄越しているのではない。自分の抱く想いを真剣に考え悩み、最愛の相手を示す言葉が自分には無いと嘆いている。
―― 吸血鬼という種が愛を持たないなど、一体誰が断定したのだろう。
彼ら自身でさえそう思い込んでいようと、とんでもないまちがいだ。少なくとも、カミルはディーナを、本当に愛してくれている。