名前の無い関係-3
返答も忘れてカミルをただ見つめていると、彼は焦りと苛立ちの頂点といった表情でディーナを睨んだ。
「五日前……お前も俺を愛していると言った。アレは薬のせいだなんて、今さら言わせる気はないぞ」
「そ、そんなこと……っ! 薬のせいになんか、絶対しません!!」
思いもよらぬ事を言われ、ディーナも咄嗟に叫んでしまった。
あんまり幸せすぎて、夢を見ているとか、何かとんでもない勘違いをしているんじゃないかと、期待と不安が同時にこみ上げてくる。
自分の望みと違う答えが来たらと怖くても、尋ねずにいられなかった。
ディーナは人間の娘だから、最愛の相手からどういう関係を望んで欲しいか、ちゃんとその言葉を持っている。
「旦那さま。私は……旦那さまの『お嫁さん』になりたいです……してくれますか?」
おずおずと尋ねた声は、囁くように小さなものになってしまったが、カミルはきちんと聞き取ったようだ。
彼は一瞬、あっけにとられたように眼を見開いてディーナを見つめ、それからとても嬉しそうな笑みを浮かべた。
顔中で笑うような……こんなに素敵な表情もできたのかと、ディーナは初めて知った。
「そうか……お前の望む言葉を聞けば良かったな」
そう呟いた彼は、すぐにまた無愛想なしかめっ面に戻ってしまったが、ディーナを見つめる赤い瞳は、とても暖かな色をしていた。
「ディーナ。これからずっと、お前は俺の嫁になれ」
両手を取ってそう言われ、嬉しさのあまりに背筋が震えた。今度は先ほどとは違う感情で涙が出そうになり、視界がじんわりと歪んでくる。
「はい……旦那さま」
目端に涙を滲ませながら、信じられないほど幸せな気持ちでそう答えた。
――が、
「待て。違うだろうが」
なぜかカミルは、ディーナの返答が気に食わなかったらしい。眉を潜めて不服を申し立てられ、ディーナはうろたえた。
「あ、あれっ!? 何か、いけませんでしたか? 旦那さ……」
「それだ」
ディーナの口元に素早く指を押し付け、カミルが言葉を遮る。
「もう小間使いじゃないんだ。ちゃんと名前で呼べ。カミルでも、カルミユールエヴァートランスでも、どっちでもいい」
「っ!?」
考えてみれば、カミルを名前で呼んだことなど、今までに一度もない。
「そ、それでは……ええと…………カ、カミ、ル……?」
何度も深呼吸をしてから、たじろぎつつもなんとか呼んでみた。
しかし、他の人たちは皆、彼をそう呼んでいるのに、いざ自分が口にしてみると、とても変な気分だった。
これからはもう旦那さまではなく、皆と同じようにカミルと呼ぶのかと思うと、嬉しいどころかとても落ち着かなくて、なんだか胸がモヤモヤする。
(……あ)
不意に、そのモヤモヤの理由に気づいて、ディーナは赤面した。なんて、自分は欲張りなんだろう……。
一方でカミルは、ディーナの表情が晴れないのを、上手く呼べなかったせいと受けとったようだ。
「まぁ、最初のうちは言い馴れないかもしれんが……」
「違うんです!」
思わず声を張り上げて、今度はディーナが遮ってしまった。
「以前……誰かを雇ったのは、私が初めてだと言っていたから……」
「ん? ああ……」
不思議そうな顔をしているカミルを見上げ、とても言い辛かったが本心を告げることにした。
「カ、カミル……は、長生きだし、武具師としてもすごく有名で……でも、その名前を呼ぶ人がどれほど大勢いても、貴方を旦那さまと呼べるのは、私だけなのが嬉しかった……」
改めて口すると、自分の独占欲が恥ずかしくなり、ディーナはうな垂れた。
それでも、どうしても欲しくてたまらなかったから、とても欲張りな要求を口にする。
「結婚相手の男の人を、旦那さまと呼ぶお嫁さんもいると聞きました! だから……お願いです。これからも私に『旦那さま』を、独り占めさせてくれませんか?」
言い終えた途端、強い両腕で抱きしめられた。唇を塞がれ、思うさま口腔を貪られる。
「ん、ん……」
息もつけぬほど深い口づけに、頭の芯まですっかり痺れた頃、ようやく唇を解放された。
「お前もなかなか卑怯だ……そう言われて、断れるわけが無いだろうが」
瞳を蕩けさせて脱力しかかっているディーナを、カミルがいっそう強く抱きしめて耳元に囁く。
「……どうせ吸血鬼にとっては、名前のない関係だ。お前の好きに呼べ」
素っ気無い無愛想な声の主に、ディーナも腕を回して抱き返す。
どんな関係だって、これ以上の幸せははないと思うほど、満ち足りながら答えた。
「はい、私の旦那さま。世界で一番、愛しています」
終