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爛れる月面
【寝とり/寝取られ 官能小説】

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3.広がる沙漠-7

 紅美子は笑い声を上げた。「ウケる。似合わないし、その髭!」
「まあ、自分では名前は選べないからね。しかも、広く美しいで、広美、だ。子供の頃はバカにされたよ」
「……私もバカにしていい? ヒロミちゃんって呼んであげる」
「死んだ母親と同じ呼び方だな。懐かしいよ」
「…‥もうちょっと恥かしがってよ、マザコン野郎」
「四十年以上もその名前で過ごしてきたら今更だ」
 全く飄々としている井上を見て溜息をつき、カードを財布に仕舞う。
「で、何の仕事? 日本にたまに来て、零細企業のOLナンパする仕事?」
 井上は笑みを浮かべつつ、
「近いね。……M&A担当。つまり買収屋だ」
「てことは、買収されんだ、ウチの会社」
「インサイダー情報だから気をつけろよ? これで何か利益を得る奴が出たら、君がバラしたということになる」
「変なことに巻き込まないでよ。世界企業様がウチ買収してイイ事あるんだ?」
「まあ、特許技術を持ってるしな。だが、それが欲しいんだが色々面倒なモノが引きずられてくる。そもそも日本の製造業の構造なんて請負連鎖がヒドすぎて、実に非効率だ。何重にも請け負われて、それぞれの企業が一体いくら利益を上乗せしてると思う? 君も伝票扱ってたらわかるだろ?」
「難しい話しないで。別に派遣社員だから知ったこっちゃないわ」
「知ったことあるさ」
 井上が紅美子を一瞥した。「尾形レベルの零細企業ってのは業務フローが人手でムダが多い。ウチに呑み込まれてシステム化されたら、当然、要らない人員が出る。つまり君は真っ先にお払い箱だ」
 特別ショックは受けなかったから、紅美子は鼻から軽く息をついただけだった。
「……ヤラれた上にプーにされたんじゃ、たまったもんじゃない。責任取ってくれんの?」
「……。仕事? それとも体ほう?」
 紅美子から振った話題だったのに、そう井上に返されてしくじったと思った。紅美子が黙っていると、「残念だが仕事は無理だ。採用権がない。……体は、今責任取ってる」
「はっ……」紅美子は芝居がかった自嘲を浮かべて、「いきなり拉致られて温泉連れてくのが、責任取るって? 何の冗談?」
「正確には、宿に連れて行ってから、だけどね」
「それ以上しゃべんないで」
 紅美子はまた体が危うくなって陽が落ちてきた景色を眺めた。いつの間にか井上はライトを点灯している。前を走る車のテールランプたちの向こうに、山肌を境とする空が紫に落ち着いていた。何をしているのだろう。素直にシートに座って、井上の導かれるままに連れて行かれている。
「旅行のいいところは……」井上は紅美子の言葉を無視して喋り続けた。「こうやって普段より色々話せることだな」
 アウディは小田原厚木道路をひたすら疾走していた。東京が離れていく。


 井上が車を停めたのは、市街地から離れ尾根に挟まれた細道を登り切ったところにある旅館だった。入口両側の提灯に照らされて、そこへ続く石畳は木の葉一つなく清磨されている。井上が降り、トランクからジュラルミンのキャリーバッグを下ろすと、助手席へ来て身をかがめた。
「降りろよ」
「……」
 紅美子は宿が近づくにつれて眉を顰め、険しい顔で前方の一点を見つめていた。宿に何しに来たか、と自問すればするほど、徹が会いに来る前日に何をしでかしているいるのかという後悔が強く紅美子を苛んだ。コンコンと窓が叩かれ促され、井上の手でドアを開けられると、紅美子は渋々長い脚を外に揃えて立ち上がった。
「ここまで来たんだ。往生際が悪い」
「……お風呂に入って、それだけで帰る、ってわけにはいかない?」
「いかないね。メシも食わなきゃな」
 井上は紅美子を置いて石キャリーバッグを石畳に音を立てて引いて入口へ向かっていく。紅美子は険しい顔のまま、肩にバッグをかけて腕組みをし、井上の背に追いていく。入口をくぐると、端麗な着物を纏った女将と、法被を着た中年の男衆が深々と頭を下げて出迎えた。
「急にすまないね」
 男衆にキャリーバッグを預け、記帳をしながら女将と言葉を交わしている物慣れた井上を、紅美子は入口の所から腕組みのまま斜に立って待っていた。
「お部屋、ご用意しております」
 女将がにこやかに案内しようとして、紅美子の様子に気づき、「あ、お靴、そのままで結構でございます」
 紅美子は聞こえる溜息をついてパンプスを脱ぎ、玄関へと上がる。
「奥様のほう、お荷物は?」
 女将が井上を見上げて尋ねると、紅美子は舌打ちを鳴らし、
「奥様じゃないですけど?」


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