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坂を登りて
【その他 官能小説】

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後編-4

 店の売り上げは少しずつ伸びていった。端から大儲けするつもりもないし、そんな規模の商売でもない。生活していければいいと考えて欲を出さずに地道にやっていこうと信念を持っていた。それは平石の言葉が心に生きていたからである。
『地道に貯めないと気持ちがいい加減になるよ』
お金は大事だが魔物にもなる。身に沁みて忘れたことはない。

 お客にも恵まれて知り合い以外にも馴染みがついて商売は順調であったが、まだ一年、二年回ってみないとわからない。小夜子は気を引き締めて一日一日を大切に送った。
 振り返ってみると困ったことは特になかったが、一度だけ厄介なことがあった。
 ある日やってきた振りの客に一か月ほど振り回されて往生したものである。二十代のまだ若い男でとにかく性質が悪かった。入ってきて酒を注文するなり、
「この店はいつ開いたんだ」
言葉つきといい、目つきの鋭さといい、堅気ではない雰囲気があった。
「もうすぐ一年になります」
「そうか、知らなかったな」
「お客さんはこの町の方ですか?」
男は答えず、
「店出す時は誰に断ったんだ?」
これはまずいなと思った。
「ここは戦前から父がやってた店なんです」
「戦前?看板も造りも新しいじゃねえか」
「蕎麦屋だったのを変えたんです」
「変えたんじゃ新しく店出したってことじゃねえか。そうなれば挨拶がいるってことよ」
 開店直後で他に客はいない。どう対応したらいいか困っているとちょうど竹川と井浦が入って来て、さらに三人の客が続いてきて、男は小夜子を睨みつけて席を立った。
「また来るからな。よく考えておけよ」

 出来事を話すと、客の一人は地回りじゃないかと言ったが、この辺にはそういう輩は昔からいないと竹川が言った。
「いるのは盛り場だ」
この辺りには店も少なく、飲み屋は『一夜』一軒だけである。
「だけど、ヤクザみたいだったな」
ヤクザと聞いて平石が刺されたことが浮かんで不安になった。
「もう来ないだろう。気にしないほうがいいよ」
井浦は笑って言った。それ以外に言いようのないことだ。

 ところが三日後の開店直前にまたやってきた。
「お店、まだなんですけど……」
「酒飲みに来たんじゃねえよ。この間の返事を聞きにきたのよ」
カウンターまで来て腕を伸ばし、長袖のシャツを捲った。毒々しい彫り物が二の腕に見えた。思わず後ずさった。
「返事って、どうすればいいんですか?」
「こっちで言わなきゃわからねえか?」
「はい……」
お金だとは察しがついていたが、言わなかった。
男はチッと舌打ちして、
「月、これだ」
片手を開いた。
「五千円……」
「それで面倒を治めてやるんだから」
五千円は当時の一日の売上である。利益はもっと少ない。お酒や料理を作って出して、やっと稼いだお金が持っていかれる。そう思ったら怖いのに応じる気にはなれなかった。
「それ、一日の売上です」
「毎日ってわけじゃねえんだ。月一回だ」
「でも……」
「わからねえ女だな。何か困った時、助かるんだぜ」
小夜子は考えてみると言ってその場はやり過ごした。

 十日ほど来なかったので諦めたのかと思っていると、客の立て込んでいるときに来て無理やり相席をして大声を出す始末であった。大半の客が帰ってしまった。中根先生が見かねて注意すると、
「俺は楽しく飲んでるだけだぜ。声が大きいのは地声よ。しょうがねえだろう」
 警察を呼んだらと先生は言ったが、白を切られたらそれまでだと思ったし、また何かされたらもっと困る。
 翌日、竹川が知り合いに聞いて、男が隣町の近藤組というヤクザの設楽という若い者だということがわかった。下っ端で地元では何もできないので他へ出向いては小遣い稼ぎをしているらしいという。
(やっぱりヤクザか……)
溜息をついて暗い気持ちに包まれてしまった。
「警察に行ってみよう。俺も一緒にいってやるよ」
竹川が言う。
「こんなこと続いたらお客が離れていっちゃうよ」
その言葉を聞いて体の底の方に熱が生まれた。
(せっかく開いた店だ。嫌がらせになんか負けていられない……)
両親や兄の想いだってある店だ。平石の面影も共にある。
「よっちゃん、少し考えさせて」
竹川を帰して、水をがぶがぶ飲んだ。

「よし……」
決めたら早い方がいい。迷いが起こらないうちに。……
 臨時休業の張り紙をして酒屋で特級酒を二本買うと駅前からタクシーを飛ばして隣町に向かった。
「近藤組って知ってます?」
「え?はい……」
「その家か事務所か、行ってください」
「はい……」
運転手は関係者と思ったのか、黙って車を走らせた。

 
 近藤組とは有名のようで、タクシーは迷うことなく大きな薬医門の前で車を停めた。
平石の顔が浮かんだ。
(力を貸して……)

 出てきた男に、親分さんにお会いしたいと言うと、
「どんな御用で?」
小夜子は名を名乗り、商売のことだと言って、
「お会いして直接お話ししたいことがあります」
男は首をかしげながら奥に入っていった。逃げ出したくなった。

 通された広い座敷で机を挟んで親分と向き合い、小夜子は上ずる声を抑えながら事の次第をつぶさに語って頭を下げた。
「お願いします。大事な店なんです。大切なお客さんなんです。もう来ないようにしていただけませんか。お願いします」
 和服姿の近藤は煙草に火をつけ一服して煙を吐いた。隣には取り次いだ男が座っている。その緊張感といったらない。小夜子は両手をついて頭を下げ続けていた。

「いや、ご迷惑をかけましたな。娘さん、頭を上げてください。下げるのはこちらの方です。若いもんが素人衆にとんでもないことをしました」
「はい……」
思わず顔を上げると近藤は微笑んでいた。


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