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坂を登りて
【その他 官能小説】

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前編-1

(1)


 やっと坂を登り切り、小夜子はふうっと息をついた。まだ階段が残っているが、もう登り終えたようなものだ。ここへ来るまでが難儀である。

 振り返ると市内が春霞の中に一望できた。ガードレールに両手をつきながら、
「体力がなくなったな……」
独り言を呟いた。
 特に日を決めてはいないが、月に一度、小夜子はこの坂を登る。月に一度というのは自分で決めたことで、誰かと約束したことではない。やめるのは自由だ。だが、続けている。
 タクシーを使えば十五分もかからない。歩くと途中で休みながら来るので一時間近くかかってしまう。七十歳を過ぎた体にはだいぶきつくなった。それでも小夜子は歩くことにしている。ときおり祈りながら歩いている。
(これが出来なくなったら……)

 市内を見下ろし、自分の家の見当をつけて、そこから方向と距離を置いてみる。
(中根先生の家はあそこの辺、竹川芳樹はあの通りの裏、西沢君に井浦正、福山善良の家は寺だからここからでもはっきりわかる……)

 関東地方でも東北に近い山に囲まれた古い町である。戦時中も空襲を受けなかったので町並みは昔とあまり変わらない。大きな建物もない。目立つのは市民会館と農協のビルくらいで、それも三階建てである。だからいつ来てもみんなの家がわかるのだ。


 小夜子は昭和十三年、、このH市に生まれた。三つずつ齢のちがう兄が二人いた。家は蕎麦屋を営む傍ら、夜は居酒屋も兼ねていて、戦後はそちらの方が本業のようになっていた。
 小夜子は不思議な少女だった。取り立てて器量がいいわけでもないのに、店に来る大人たちに、よく、「いい女になるね」と言われた。
「色気があるよ」
当時、意味などわからない。
 可愛いと言われたことはない。子供心に褒められているのだと思いながらも素直に喜べないものを感じて、子供らしからぬ愛想笑いを浮かべて上目使いで大人たちを見上げていた。そんな時、父も母も複雑な顔をしていたのを憶えている。

 一言で言えば愛敬のある子供だった。決して媚びていたのではなく、物おじしない、誰とでも話のできる大らかな性格だったといえよう。
(嫌いな人がいない……)
友達が誰かの悪口を言っているのを聞きながら、小夜子はそう思ったことがある。それは今に至るまで変わりはない。

 勉強はあまり出来るほうではなかった。かといって運動が得意でもなく、その点ではありふれた子であった。それなのにいつもクラスの中心にいたのは、分け隔ての出来ないやさしい性格をみんなが感じ取っていたからだろう。
 クラスには必ずいくつかのグループができるものである。秀才派、不良仲間、どっちつかずの無関心。小夜子はどこにも属さなかった。それらから距離を置いていたのではなく、みんなと仲がよかったのだ。おもねったこともせず、常ににこやかに接する彼女の自然な振る舞いが自由で特異な存在感を作り上げていたようだ。

 他の子と明らかな違いは成長の早さにあった。幼い頃から体は大きい方だったが、九歳で初潮を迎えると胸や尻は目に見えてふっくらしてきて、中学に入った頃には大人もたじろぐほど豊満になっていた。しかし相応の色気がともなっていたわけではない。顔にはまだあどけなさが残り、所作も子供だったし、身のこなしも無防備であった。
 そのアンバランスな魅力に店に来る男たちの好奇な目が舐めるように注がれた。小夜子は気付かなかったが、手伝いをしている彼女の体に脂ぎった視線を送る輩が増えていくことに両親は憂慮していた。酔客の中には彼女を膝に座らせて酌をさせる者までいた。小夜子は嫌がるどころか、はしゃいで悦んでいる。客は時に尻や胸をつついたりもする。

 当時、子供が家業の手伝いをするのは当たり前のことであった。小夜子も小さい頃から自分の意思で店に出たものである。
 初めは学校が半ドンの日や、休日の昼間に洗い物をしていたが、そのうち料理を運ぶようになり、夜も遅くならない時間だけ店に顔を出すようになった。
「小夜ちゃん、小夜ちゃん」
声をかけられて、大人たちの賑やかな雰囲気がとても楽しくて、毎晩のように店を覗いた。顔を見せれば大人たちに呼ばれて浮かれていた。

 ある日父から、もう店を手伝わなくていいと言われた時、小夜子は悲しい気持ちになった。だが、その理由を訊くことはしなかった。自分が何か失敗したのではない。それは間違いない。おぼろげながら、思春期の心と体が訊いてはいけない訳を感じ取っていた。


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