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栗花晩景
【その他 官能小説】

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朧(おぼろ)-1

 温暖な地方から梅の開花が報じられる季節になった。春の気配が薄絹が舞うように感じられる日々である。

 その後由美子と接する機会はなかった。水が温むまで釣りの声もかからず、マンションを訪れることもなかった。毎日帳簿に向かう由美子の横顔は冷徹にさえ見える。二人で乱れたことなどすっかり忘れたように滅多に笑顔も見せない。私の気持ちは揺らいでいたが何もできないでいた。

 そんな日々の中で恵子に笑顔が戻ってきたのを見ると複雑な気持ちであった。釣りに行くことがなくなり、従って次兄の家にも行かない。家族が揃う時間が増えることが心の安息を生むのだろうか。

 帰宅して玄関のドアを閉めると同時に息子が奥から駆け寄ってきた。
「お帰りなさい」
恵子がキッチンから顔だけ覗かせた。
「ねえ、聞いた?」
「何を?」
「由美子義姉さんのこと」
彼女の名前が出たことでかすかな強張りが体を走った。
「義姉さんがどうかしたの?」
「赤ちゃんが出来たんだって。今日、母から電話があったの。会社で何も言ってなかった?」
鈍い衝撃を感じた。
「義兄さんも何も言わなかったな」
「よかったわね。年齢的にもそろそろ難しくなるし」
「うん……よかったな」
 息子を食卓につかせて洗面所に向かいながら、私は由美子の心を考えた。どんな顔で夫に妊娠を告げたのだろう。……二度の激しい夜が焼きついて離れない私には彼女の顔が想像できなかった。

「由美子義姉さん、しばらく仕事休むんだって」
「そう。大事にしないとな」
「そうよ。大事にしないと。赤ちゃんだもん」
恵子は嬉しそうである。
「赤ちゃんの話っていいわよね」
「欲しくなった?」
「ちょっとね」

 翌日次兄にお祝いを言うと照れながら嬉しさを隠しきれない様子である。
「当分釣りもお預けになるかな」
少しも残念な風には見えない。
「義姉さんに体を大切にって伝えてください」
「ありがとう。安定したらまた仕事に戻るかもしれないから、家にも遊びに来てくれよ」
他の社員からも次々と祝福を受けた。

 相好を崩して歓びを表す次兄を見ているうちに、私は妙な疎外感を感じていた。
(由美子と次兄は夫婦なんだ……)
当然のことがいまさらのように胸に沁みてくる。私と肌を合わせ、快感に悶え、絶叫し、なおかつ全身をぶつけながら私の名を呼んだ由美子。
(自分のものではない……)
わかっていながら彼女の感触が手や唇にまで残っていて心奥が疼いた。

 由美子に電話をしたのは午後の外出時である。私とわかって一瞬の沈黙があった。
「義姉さん、おめでとう。昨夜恵子から聞いて……」
由美子はちょっと口ごもってから、
「ありがとう……」
か細い声がやっと聞き取れた。そして黙ったまま息遣いと気配だけが伝わってきた。
(体を大事に……)
そう言うつもりで呼びかけた。
「義姉さん」
「主人の子よ」
私の言葉を遮った彼女の声は低く、しかも有無を言わせぬ強さがあった。
『何もなかったのよ……』
無言の言葉が響いた。
「うん……体を大事にしてください」
「……ありがとう……」
電話を切ったあと、熱いものが込み上げてきた。

 日が経つにつれ安堵の気持ちが広がっていったのは現実を見つめる冷静さを取り戻したということであろう。
 思えば未来のない関係にのめり込みつつあった。もし妊娠によって遮断されなければ私はどんな行動を起こしたことか。弾け飛んだ由美子とのセックスの呪縛から逃れられず、彼女を積極的に求めたにちがいない。きっと彼女も応じたと思う。そうなれば先の見えない重苦しい道を這いつくばる結果になったかもしれない。愛欲の虜になってしまうと判断は身勝手になる。結果として関係を持ってしまったが、誰にも知られずに済んだことはぎりぎりの所で踏みとどまったということになる。未練はあった。が、そこに理性を据えることはできる。

 由美子から離れてみると、当然のように恵子がいた。毎日生活をともにしていたはずなのに改めて彼女を見つめるとしばらく会わなかったような気がした。それだけ心が浮遊していたのだろう。


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