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栗花晩景
【その他 官能小説】

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風化(2)-6

 それから三年が過ぎ去った。
遠ざかる足音をたしかに耳にしながら、振り向くことなく歩いた。背中に風を受け、ほんの少しだけ歩みが速くなったかもしれない。
(逃げる気持ちがあったのか……)
思い直して立ち止まった時、すでに足音は聞こえなかった。

 三年前、和子は屈辱にまみれたまま、ついに一度も出社することなく退職した。事情を知らない課長は何度か電話で慰留したようだったが、体調不良という理由で彼女は去っていった。

 古川はリンチの二日後に姿を見せた。その顔はマスクと眼帯に被われてまるでミイラのようであった。
 私と大野には卑屈なほど低姿勢になったものだ。それまで私たちに頼んでいた雑用も自ら行うようになって、必要最小限のことしか話さなくなり、目も合わさなかった。

 しかし古川がどんなにしおらしくなろうと私たちは傷めつけたことを後悔はしていなかった。それどころか、和子が辞めたとわかってからは怒りが再燃して露骨な嫌がらせをするようになった。
 どちらかがわざと聴こえるように、
「田崎が辞めたんだってな」と言い、
「そうだってな。どうしてだろう」と一方が応じた。
そのたびに古川は委縮し、脅えて席を外すのだった。

「ざまをみろ」
「こんなもんでは済まさないぞ」
私たちは顔を見合せて笑った。
 現場では呼び捨てにした。さらに、
「古川、喉渇いた。何か買ってこいよ」
「俺もだ。古川。お前のおごりでな」
すぐに動かない時には、
「モデルルーム行くか?」
古川の頬を引き攣らせた顔を見るのが痛快だった。
 しかし、そのうちに虚しさを感じるようになった。

 大野が会社を辞めると言い出したのは年が明けて間もなくのことである。
「やる気がなくなった……」
私も同じだった。いびり続ければ古川は耐えきれずに辞めると考えていたのだが一向にその気配がない。これから先も顔を見ながら仕事をしていく気持ちにはなれなかった。仮に古川がいなくなったとしても心の澱は消えようがない気がしていた。

 私と大野が相次いで辞表を提出すると、課長だけでなく部長まで慌ててやってきた。
「住宅課はどうなっているんだ」
部長は課長を責め、課長は先輩である古川の指導力不足を叱った。
 しかしどうでもいいことだった。私たちは個別に呼ばれて理由を訊かれたが二人とも適当なことを言った。

 大野は郷里の栃木に帰って仕事を探すと言って寂しそうに笑った。別れる時、
「どうする?」と訊いてきたのは、もう一度古川を殴るかどうかということである。正直なところ気持ちは萎えていた。
「頭にくるけど、あんなやつどうでもいいよ」
「そうだな……」
大野にもすでに燃え上がる怒りは見られない。黙り込んで空を見上げたのは和子を思い浮かべていたのかもしれない。
 実は最後に和子を誘って三人で会おうかと話をしたのだが、断念したのだった。彼女の顔をまともに見ることができるのか、楽しく語り合うことができるのか。それは難しいと思われた。
「悔しいな……」
大野は唇を噛みしめ、
「こんなことが思い出になるなんて、いやだな」と呟いた。

 それから私は定職に就かず、アルバイトをしてはぶらりと旅に出たり、車で目的もなく暗くなるまで走ってみたり、親から見れば怠惰な生活を送った。父親からは社会人としての自覚を促された。
 自分でもわかっていた。もう学生ではない。遊んでいることは苦痛であった。何もしなかったのではない。新聞の求人欄には毎日目を通していたし、面接を受けにいったこともある。うまくいかなかったのは私に積極さがなかったからだろう。
(いつまでもこうしてはいられない……)
追い立てられるような想いが心に揺れていた。


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