今日もどこかで蝶は羽ばたく-1
若い二人をこれ以上邪魔しないよう、タバサは台所で紅茶を入れていた。
台所の棚には、シェアラたちが持っていたのと同じ新聞が置かれている。
「お疲れさまでした」
香りの良い温かな茶をカップに注ぎ、台所の椅子に腰掛けたウォーレンを労わる。
「やれやれ、この程度でくたびれるとは、私も老いたものです」
テーブルに並ぶ愛妻の菓子を前に、ウォーレンが鋭い目元を細める。
「仕方ありませんわ、私だって昔ほど身体が動きませんもの」
隣りの椅子に腰掛け、タバサはふんわりした金色の尾で夫を撫でた。
「でも、あの条例を勝ち取れたのは、貴方の活躍があったからよ。どんなに年をとっても、貴方は私の誇りだわ」
この二ヶ月間、犯罪証拠集めに奔走していたイグレシアス家の密偵は、妻の賞賛という何よりの褒美に、照れ笑いをする。
「ところで……」
不意に、タバサがくすくす笑った。
「この前、ルビーから聞いたのですが、あの子がぼっちゃまに出会うきっかけは、一匹の蝶だったそうですよ」
「蝶が?」
初耳の情報に、ウォーレンは耳をピンと立てる。
「荒野で蝶を見つけ、水のある方角がわかったんですって。それが原因で山賊に捕まって……世の中、どんな些細な事がきっかけになるか、わかりませんわね」
タバサは目を細め、夫を眺める。
「いつだか貴方が、そんな例えを教えてくれたじゃありませんか」
「……ああ、『バタフライ・エフェクト理論』ですね」
博識な老狼は目を瞑り、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
本当に歳をとったものだ。軍の諜報員として暗躍していた頃は、数日間の徹夜など平気だったのに。
「かすかな蝶の羽ばたきが、巡り巡って世界を変える事もある……まぁ、あくまで理屈ではありますが……」
タバサの肩にもたれ、うとうとまどろみながら、遠い過去を振り返る。
この牙と爪で、数え切れないほど命を潰した。
死ぬのも麻薬漬けも嫌だったから、自らの意思で軍の犬になった。
いつか自由を掴むため、ビースト・エデンに行き着くための辛抱だと、誇りも何もかも捨てた。
情報入手に暗殺、裏工作……身体は健康に生きていても、しだいに病みきった心は死んでいき、いつのまにか自由を得る夢も目標も、どうでもよくなっていた。
偶然の積み重ねでタバサに出会わなければ、とうに荒野の塵になっていただろう。
二人を軍から抜けさせてくれたのはメルヴィンの父だが、ウォーレンの心を生き返らせてくれたのはタバサだ。
(タバサ、私の世界を変えた蝶は、君でした……)
そしてメルヴィンも、自分の蝶を見つけたらしい。
どんなに自分だけ立ち止まろうとしても、不可能だ。
世界には命が溢れかえっており、誰もが必死で生き延びているのだから。
自分の小さな行動が、どんな影響を及ぼすかなんて気にもせず……
――今日もどこかで、蝶の羽ばたきは世界を変え始める。
終