歩み出す子孫-3
トレイシーの悔恨も苦悩も、今なら解る。いや、自分が思うよりも、はるかに辛く深いものなのだろう。
あの船にいた獣人たちさえも、そもそもトレイシーさえいなければ、この大陸で罪を犯す事もなかったのだ。
『お前が立ち止まりたいなら、好きにしろ!』
もうすでに、この事件が帝国貴族や軍にも関係していることは明かだ。
ルビー一人を助けた結果が、思いがけない生贄を生む結果になるかもしれない。
それでも……。
『俺はもう何かを救う事を脅えない!どんな犠牲を生んだとしても、ルビーを救えるなら、後悔なんかしない!』
『……』
トレイシーは何も言わなかった。
だが少しだけ微笑み、半透明の手が海面の一部を指差す。
視界を凝らすと、波飛沫の合間に、気絶したルビーを必死で大きな板切れに乗せているグレンが見えた。
グレンは砲撃をまともに喰らったらしく、酷い火傷と出血で、今にも沈んでしまいそうだ。
『――っ!?』
振り向いた時には、トレイシーの亡霊は、すでに消えていた。
精神を集中し、沈みそうになるブーツを必死で海面に浮かせながら、慎重に踏み出す。ここで沈めば、あっという間に波にさらわれ、今度こそルビーを見失う。
一歩一歩がひどく重い。
魔晶石に吸い取られ続ける体力は底をつきかけており、目が霞む。永遠にたどり着けないような気すらした。
ふと、初めてルビーに出会った時を思い出した。
あのボロボロの身体で、はるか海の向こうを目指していたルビーも、こんな気持ちだったのだろうか。
(鼻で笑ったら、えらい剣幕で怒られたっけなぁ……)
全身に汗を滲ませながら、自然と口元がほころぶ。
無愛想な帝国軍人に怯えながらも、絶対に諦めないと叫んだ獣人少女。
きっとあの時から、ルビーへ恋していた。
苦労してようやく板切れにたどり着いたときには、グレンの姿はもう無かった。力尽き沈んでしまったのだろう。
目を閉じ板切れに上体を乗せているルビーを、何度も沈みそうになりながら抱き上げる。
『メルヴィンさま!』
振り向くと、ウォーレンたちを乗せた小さなボートがやってくる所だった。
『たまげたな、そのブーツは水の上も歩けたのかよ』
海面に立っているメルヴィンに、隊長が驚きの声をあげる。
『技術部が知ったら、どうやったか教えるまで監禁されるぞ』
『黙っててください。とっさに出来ただけなんて言って、また怒鳴られるのは御免です』
ルビーを抱いて素早くボートに乗り込むと、厳しい表情のタバサが口を開いた。
『ぼっちゃま、あの煩い小型船は撃沈させてようございますね?』
メルヴィンが頷くやいな、キツネ獣人の老婦人の全身を金色の毛皮が覆う。右肩に重たそうな砲筒を担ぎ、タバサはすくっと立ち上がった。
ツンと尖った黒い鼻先がヒクヒクと小さく動き、風を嗅ぐ。
タバサの持つ砲筒は、まるで小型の大砲といった形だ。先端上部についた拳大の魔晶石が、深い蒼の光りを帯び始める。
『はっ!』
タバサが短く息を吐き出すと同時に、筒先から強烈な閃光が飛び出す。メルヴィンの銃撃が1とすれば、こちらは100だろう。
大きく揺れるボートから放たれたのに、閃光は小型船の中心部を正確に打ち抜く。
爆音を立て炎上する小型船を一瞥し、タバサは座ってしとやかにスカートを直す。若かりし頃、戦場で暴れまわった腕前は、まだまだ健在のようだ。
ウォーレンは親指を立ててニヤリと笑い、隊長は冷や汗を拭う真似をした。
――ルビーが目を覚ましたのは、その直後だったというわけだ。