紅蓮のビースト-1
辺りを夕闇が覆い始め、見知らぬ路地でルビーは人容にやっと戻った。
狭い通りには、ひびの入った古い建物がひしめきあい、木箱やガラクタがあちこちで山と積まれている。
粗末な身なりの人間や獣人たちが、ピンクの上等な衣服を着た獣人少女を、胡散臭そうに眺めていた。
吹き抜ける風は妙な臭いで、空気はかすかにしょっぱい。
ここはもしかして、港に近いスラム街ではないかと、メルヴィンの部屋で見た地図を思い出す。
しかし、港が近いからといって、何になる?
もう屋敷に戻ることはできないし、緑の大陸に渡る手段も消えてしまった。
(大丈夫……振り出しに戻っただけ)
懸命に自分へ言い聞かせる。
五ヶ月前には、やっぱり何も持ってないで、目指す場所も同じだった。でもあの時に比べれば、遥かに身体は良くなっているのだ。
同じスタートでも、条件は格段に整っている。
メルヴィンの事を少しでも考えたら、泣き伏して進めなくなってしまいそうだから、これからどうするかだけを必死で考えようとした。
「よぉ、こんな場所で会うなんざ、奇遇だな」
不意に背後からかけられた声に、心臓が跳ね上がった。
反射的に飛びのこうとしたが、がっちりと肩に食い込んだ手が、それを阻む。
「グ、グレン……!?」
かつての旅団長グレンが、五ヶ月ぶりにルビーを鋭く見下ろしていた。
メルヴィンに負け劣らぬ長身。袖なしの上着から覗く腕は、引き締まった逞しい筋肉で覆われ、鋭くつり上がった瞳は赤だが、ルビーよりもさらに濃い紅蓮の眼光を帯びている。
旅団長となった時、グレンは若干十六歳だった。類稀な強さと統率力を誇る豹獣人は、年齢を重ねるごとに、その存在感に凄みを増している。
旅団が壊滅してから、彼を含め皆の生死もわからなかった。
この広い大陸で、もう再会するなどないと思っていたのに……。
「久しぶりだな。見違えたぜ」
薄汚れた通りには外灯もなかったが、近くのボロ家から小さな灯りがいくつか漏れていたし、豹獣人のルビーは夜目が利く。
グレンの耳に、金の小さなタグがついているのに気付いた。
どうやら彼は今、人間に飼われているらしい。あの襲撃で捕われたのだろうか?
だが元気そうだし、身なりも旅団の頃より小ぎれいな所を見ると、酷い目にもあっていないのだろう。
「あの、旅団は……他の皆も無事なの?キースやジョシュアお爺さんに、レイチェルとブレンダは?」
彼が生きているなら、他にも無事な者がいるかもしれない。
年老いたアナグマのお爺さんや、生まれつき足の悪かったウサギ青年、まだ幼いキツネ姉妹の顔などが次々に浮かぶ。
「気になるか?」
鋭い犬歯を見せ、グレンは嘲るように口端をつりあげた。ルビーを見るとき、彼はよくこういう顔をする。
「だって、大事な仲間だし……」
「お前がどうやって食料を手に入れているか知りながら、のうのうと寄生してたヤツ等が、大事な仲間?相変わらずだな」
言葉で古傷をえぐられ、思わず息を詰めた。乾いて縮こまる舌を、もごもごと小さく動かす。
「あれは……でも、皆だって頑張ってて……」
「まぁいいさ。お前こそ、ルシーダ婆はどうした?」
「婆さまは……あの襲撃の傷で亡くなったわ」
「フン、さすがのルシーダ婆も、ようやくくたばったか」
くくくっと喉を引きつらせてあざ笑うグレンを、恐ろしさも忘れて睨み上げた。
「何がおかしいの!?」
「本当はな、ここで会ったのは奇遇じゃねぇんだ。芸術祭のステージでお前を見つけて、後をつけてたんだよ」
グレンは突然、まるで違う事を言い出した。
ルビーの肩を痛いほど掴んだまま、顔を近づける。
「お前を連れ帰った、あの帝国軍人が飼い主か?随分可愛がられてるようだが、やけに血相変えて飛び出してきたじゃねぇか。どうしたんだ?」
肩に羽織った上等なケープのに、グレンの爪が食い込む。
「痛っ!」
肩の痛みに顔をしかめ、ルビーは身をよじった。しかし、鋼鉄のような爪は食い込むばかりで、抜け出すことは叶わない。
こんな光景は慣れっこなのか、周囲は素知らぬ顔だ。
「ルシーダ婆は死んで、お前も自分から出てきたなら、屋敷を襲撃して攫う手間が省けた」
グレンが顔を寄せて囁いたセリフに驚愕した。
「なっ!?どうして!」
今更ルビーに、何の用があるというのか。
「お前に話があるからに決まっているだろう。一緒に来い」