第3章 破滅-1
1、悲劇
大学が決まりました。フランス文学を専攻した私を、ミニョンは小躍りして喜んでくれました。殊更受験に苦労したという思いはなかったのですが、やはりひとつ荷物をおろした身軽さはありました。ミニョンは私の合格を知った日、特別だと言って母のワインを開け、二人きりでお祝いしました。その日が私を破滅へ向かわせる序章の日だとも知らず、ワインを少し飲み、ミニョンのはしゃぐ気持ちに同調しておりました。
冬の柔らかな日差しが差し込むミニョンの部屋のベッドで、宴の後の開放感あふれる戯れに疲れ、お互いの脚の間に顔を埋めたまま恍惚感に浸って眠っておりました。
突然のドアの音に二人は同時に目覚めました。母がベッド脇に立っていて、もの凄い形相で二人を見降ろしておりました。私はあわてて上掛けで二人を被いましたが、ミニョンはそれをはぎ取り、緩慢な動作で起きあがると、
「Oh mon cher, il est-ce que le retour tôt était aujourd'hui et avait soudainement n'importe quoi à toi?(あらあら、今日は早い帰宅ですこと。何かあったの?)Mais ……comme veut si je fais un coup.Tu es une personne rauque.(でも……ノックくらいなさったら? 失礼な方ね。)」
母は、ワナワナと体を震わせたかと思うと、バッグを床に叩きつけ、荒々しい足音を立てて出ていきました。
ミニョンは、素肌に部屋着を羽織ると母を追いかけました。
私はこの頃、大抵のフランス語は理解できておりましたから、二人の状況を見られてしまった、という呵責とは違った、一種異様な雰囲気を感じて思わず締まり切っていないドアの陰に走り、聞き耳をたてました。二人の会話は、私にとっては驚くというより奈落に突き落とされたほどの驚愕でした。
ミニョンは、なんと、母のお相手だったのです。
母とミニョンの会話の調子、そして、自分に照らし合わせて考えれば、もっと早くに気が付くべきでした。ただ、結婚をして、私という子まで成した母もそうだったのか、と分かったことにはさほどの驚きはありませんでした。私の無頓着なバカさ加減は今に始まったことではないにしても、今日までのことが急にはっきりと見えてきたことに震えが止まらなくなってしまったのです。
今まで母を取り巻いてきたさまざまな女性は、全て母に奉仕するためにいたのではないか、という疑いです。私が幼い頃出入りしたあの優しかった留学生たちも、みんな母のお相手だった? サキはともかく、若い小枝子や智代まで疑われるのでした。なかでも腹立たしく思い出されたのは、親友ミクの謎の失踪でした。母の帰国を前に急に帰ってしまったのは、母との間に何かあったからにちがいない……、あの最初の夜、母のベッドで寝たという話。そう、下着も着けずに私の部屋に戻ってきたときには、もう、母の毒牙にかかっていたのではないか……その後の、ミクの積極的な性の講義……あれこそ、母がミクに施した受け売りではなかったか……。中学校長の<女の館ねえ……>といった言葉までが蘇りました。あの含み笑いの言葉と否定は、蔑みの表れではなかったか。私の退学に際して、いったい、母と校長の間でどういう内容が話し合われたのか……。
さまざまな雑念が一瞬の間に頭の中を駆けめぐり、私は、自分のバカさ加減をのろい、髪を掻きむしりながら声を殺して泣きました。
母のヒステリックな声が聞こえました。
<あなたをどれだけ面倒見てきたと思っているの。貧しいあなたをフランスから連れてきて、大学まで卒業させて、いいお洋服を与えて、美しい女に育て上げたのは誰だと思っているの。もう7年よ……。そんな私を裏切って、こともあろうに私の娘を誘惑するなんて。日本では、そう言う人を<犬畜生>って言うんです。Est-ce que tu es prostituée!!>
あなたは……prostituée……プロフェショナル? どういう意味?
<Est-ce que tu es バイタ!!>
バイタ……? 私の知らない言葉が母の口から次々に飛び出します。汚い言葉だという印象だけは感じられます。
母は早口でミニョンに向かって、あらん限りの罵詈雑言を投げておりました。
母の興奮した粗い息が聞こえ、しばらく黙ったのを期に、ミニョンが静かに、でもリンとした声で母に反論し始めたのです。
<あなたはそう仰いますが、私もあなたには十分奉仕してきたつもりですよ>
<奉仕……ですって……!?>
<そう、奉仕です。あなたがそこまで仰るのでしたら私も言葉を返します。プロヴァンスのカフェであなたは私に声をかけてきましたね。美しい日本女性だと思いました。上品なフランス語にも驚き、好意を持ちました。それは、私がビアンであることを見抜いた上でのことだと分かるニュアンスだったからです。たしかに私はビアンです。私はそれで苦しんでいたのです。自分はアノルマルだと気付いたショックです。そして、恋人がノルマルな結婚をして、彼女を失った悲しみでいっそ死のうかと迷っていた時でした。そんな時のあなたのフランス語は、優しくて魅力的でした。……私が貧しいのは認めます。でも、あなたに連いて日本へ行こうと決心したのは、一刻も早く、彼女の住むプロヴァンスを離れたかったからです。それであなたの誘惑に乗り一夜を共にしました。あなたの優しさや美しさがそうさせたのは認めます。でも、愛したわけじゃありません。この家に来てからのあなたは豹変しました。あなたの変な趣味にも付き合いました。私には耐えられないようなことも、我慢して……なのにes prostituéeだなんて、そこまで言われるとは思いませんでした>