第3章 破滅-7
3、未来との再会
入学の日は、わずかに残る桜が名残惜しげに風に舞う晴れた日でした。
“あはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ をみなごしめやかに語らひあゆみ……”
三好達治の詩が頭のなかで花びらのように流れていきました。
大学に通い出して良かった、と思ったのは、今までのような狭い環境ではなく、私の特殊性が一種希釈されたような開放感があったことです。時に振り返る人はいても、私が振り返りたくなる人も沢山いる、ということです。私を追いかけてきて、しつこく勧誘する演劇部の先輩は、思わず見とれるほどの美しさでした。
クラブ勧誘の声を振り切って、なにはさておき、フランス文学の原書を何冊か借り出して勉強に没頭してみようと、思い立って図書館に向かいました。
書棚を巡りながら一周したところで、反対側からひとりの女性が私に向かって駆け寄ってきました。
「翔子……」
私の顔を覗き込んだ彼女は、目にいっぱいの涙を溜めておりました。
「…………」
栗色に染められたストレートの長い髪、淡いお化粧をした美しい顔は紅潮し、手にしたバッグを投げるようにして私の胸に顔を埋めてきました。
「翔子……ミクよ……解らないの?」
「ミク……?」
私はあわてて彼女の顔を持ち上げ、お化粧の中にミクの面影を探しました。
「ミク……ミクだわ……どうしてここに」
「どうしてって……ミクもここに入学したからよ!」
私の頭の中に、おじさまの言葉が閃きました。大学に行けばきっといいことがある……まさかおじさまはこのことを……。
「ああ……何からお話していいのかわからない。翔子少し痩せたみたいだけど、やっぱり綺麗……」
「翔子、とっさに解らなかったわ。初めての登校で知る人なんているはずないのに……」
ミクは私の手を汗ばむほど強く握ったまま、とにかくどこか静かな所へと誘い、学校近くの瀟洒なホテルのロビーの片隅に落ち着きました。しばらく二人は手を握り合ったまま無言で涙するだけでした。どこかへ追いやっていたミクの手から伝わってくる懐かしさは涙になるだけでした。
「私だけ、一昨年日本へ帰ってきたの……今、おばさまの家に居候……」
と、話し始めました。
ミクの突然の失踪は、あるいは、と思っていた通りでした。
二人のただならぬ関係は、二人してホテルに入るところを誰かに見られていた、ということです。やはり大人びていても小学生は小学生なんですね。ただ、その通報がミクの家庭にだけいったというのは、私は背の高さからして大人びて見えたのかも知れませんが、女性二人でその種のホテルに入る異常さは通報に値したのでしょう。
激怒したミクの両親は、それまで渋っていたアメリカ転勤を急遽受け入れ、家族でアメリカへの移住を決めたそうなのです。
娘の思いも掛けない性癖、ふしだらな行為、私への憎悪……ご両親としてはどれほどのショックだったでしょう。
「ショック、なんてものじゃなかった……母は、私を道連れに死ぬ、父は、もう会社で顔も上げられない、って……」
アメリカへ行ったからといって、日本での噂は75日だとしても娘の性癖は直るものではあるまい。むしろ、自由なアメリカでは却って娘の性癖を助長するのではないか。そんなご両親の葛藤は、ミクに対する汚らわしい気持ちと、一人娘に対する溺愛の間で、長い間ミクを閉じこめて悩み抜いたそうです。
ご両親の悩みは自分たちで解決できるものではありません。でも、日が経つに連れ、私に対する憎悪の強さが相対的にミクの罪を軽くしていったのかは分かりません。ご両親なりに理解できない悩みに決着が付く日がきたのです。ミクが学校へ通い出すと、新鮮な体験のせいもあってか、悪夢から覚めたようなミクの様子にご両親もホッとされたようでした。
ミクの可愛さは、向こうの男の子、女の子の隔てなく人気者となったそうです。ミクの家には、毎日男女の級友たちがパーティーと称して集まるようになると、ご両親は、あれはミクの思春期に起きた一時的な現象に過ぎなかったのではないか、と、考えるようになり、家族の修復はなされていったようでした。
「でも、ミクの本当の姿はパパもママも知らないのよ……もう子供じゃないのよミクは。持って生まれた性質は変わるものじゃないわ。あのね、やはり日本と違って、向こうの男の子はとっても積極的。小学生の間は遊びのデートくらいは付き合ってみたの。男の子も面白いといえば面白いわ。だけど、デートに付き合うと、それだけでミクに触れたがるの。中学へ進むと、もう男の子とは言えなかった。そのような雰囲気に持って行こうとされると気持ち悪いだけ。ミクはやっぱり、女性しか愛せないんだってはっきり分かっているの。でもこの性格、ミクはいやじゃないの。だって、パパやママのように普通に結婚して、子どもを生んで、悩んで喜んで……そういう一生と、愛する人が女性っていうだけでどこが違うのかしら。子孫を残すこと……? 自分の子供を欲しがらない夫婦だって大勢いるのに……」
アメリカでは、同性結婚も半ば公認されているも同然ですが、そうはいっても自分の両親を見て育ったミクにしてみれば、自分がマイノリティーの人間だと認めるのはかなりの葛藤があった筈でした。私はその点、ミニョンの愛に包まれて、自分がマイノリティー人間だとか、世間体などといった感覚は持ったことがありませんでしたが、ミクは、尋常でない両親の嘆きを目の当たりしたばかりに、自分を秘密のベールで覆うことに長けていったのではないでしょうか。
ホテルのロビーでは、抱き合ってキスすることもできなかったので、ホテルを幸い、打ち合わせと称して部屋を取りました。