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ブービートラップ
【ショタ 官能小説】

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Jeffの手紙 Part1-1

親愛なリチャード

ここに記すことは、君の胸にしまい、墓場まで持って行くと約束して欲しい。

私は1961年5月、アナポリス第108期生として海軍兵学校を卒業した後、君とともに海兵隊に少尉として任官した。そして、時のケネディ政権の方針に従い、同年8月、私は、共産ゲリラを掃討する南ベトナム政府軍の支援に当たる軍事顧問団の一員として、サイゴンに派遣された。しかし、実際の任務は海兵隊の特殊部隊を率いて、ベトナム南部のコーチシナにあるベトコンの根拠地を攻略することであった。ルイジアナのミシシッピ川河口域で、私は対ゲリラ戦の厳しい戦闘訓練を受けていたが、メコンデルタは、それとは比べ物にならない絶望的な緑の地獄であった。頭上から降ってくる蛭に血を吸われ、マラリアやデング熱を媒介する蚊に刺され、密林に潜む潜むコブラ、パイソン、そして姿の見えない敵の伏兵に怯え、私は肉体的、精神的に消耗した。

その年の12月に補給物資の手配のため、任務で訪れた沖縄で、私は1人の女性に出会った。彼女は嘉手納空軍基地の第2ゲート前の「ゲートストリート」にある土産物屋で働いていた。彼女は、私ににっこり微笑みかけ、片言の英語で根気よく商品について説明してくれた。その笑顔は野に咲く一輪の花のように可憐で、戦場でぼろぼろ傷付いた私の心を優しく包み込んだ。

彼女の笑顔見たさに、私は1週間の任務期間中、彼女の店に毎日通った。そして、ベトナムに戻る日の朝、私は、通訳官に頼んで作成してもらった日本語のメモを携え、またその店を訪れた。そして、彼女に名前を尋ねた。彼女は、謝花華奈(じゃはなかな)と答えた。私は、彼女にメモを見せて、「もし生きて、またここを訪れることができたら、再び君に会いたい。」と伝えた。

半年後、再び私は任務で沖縄を訪れた。そして、彼女の店に直行した。彼女は私を見た途端に号泣した。私も万感の思いが込み上げてきて、彼女を抱きしめた。その夜、私たちは結ばれた。その後も、沖縄を訪れるたびに、私は華奈と会い、愛し合った。

1964年8月に、トンキン湾事件が起き、ケネディ暗殺後に大統領に昇格したリンドン・ジョンソンの政権は北爆を開始するとともに、50万人規模の地上兵力を投入する、全面介入方針を決めた。こうして、ベトナム戦争は、米海兵隊特殊部隊が関与する南ベトナム内戦から米空軍や陸軍主導の国際紛争へとエスカレートした。

このような戦況の変化の中、私の部隊は1965年春に前線から撤収し、本国に召喚された。同年6月、私は、故郷のサンディエゴで、高校時代の恋人で小学校の教師をしていた、ジェーン(Jane)と結婚した。そして、次の年の春、可愛い双子の娘が生まれた。

1967年3月、私は沖縄の海兵隊第3遠征旅団本部に参謀として赴任することが決まった。着任後、私たちには、オフ・ベースの士官用住宅が手配された。

私は、住宅のある泡瀬地区から、旅団本部のある具志川まで軍用車両で、片道30分掛けて通勤した。新任地での参謀の任務に慣れ始めた4月のある日、制服のボタンが取れて何処かにいってしまったため、基地内の洋品店を訪れた。

その店で、偶然、私は華奈と再会した。私を見た途端、彼女の目から大粒の涙がぼろぼろと、こぼれ落ちた。彼女は、私が迎えに来るのをずっとずっと待っていたのであった。私も、懐かしさと彼女への愛しさが胸に込み上げてきた。

その夜、私は華奈を軍用車で連れ出し、アメリカ人専用のモーテルで、彼女を抱いた。その頃の私は、作戦任務のため沖縄をハブに日本本土、ベトナム、カンボジア、フィリピン、台湾、南朝鮮の間を飛び回っていた。沖縄に戻れば、彼女を連れて、夜に食事に出かけたり、ダンスホールで踊り明かした。

沖縄では、私は良き夫、父親のとしての顔と、情熱的な恋人の顔を使い分けて暮らした。もちろん、私の心は良心の呵責に疼いたが、ただ誰も傷付けたくない一心で、そのような偽善的な生活を続けた。その結果、取り返しのつかない事態を招き、みんなを傷付けるという最悪の結末を迎えた。


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