素描-4
あなたはそのころから燿子の夢を見るようになった。燿子が無機質な、《きわめて閉鎖的な鏡の部屋》にいる姿が揺らめいた。何もない鏡の部屋に閉じ込められた全裸の燿子は、画伯によって黒々しい縄で厳しく縛られ、物憂い目をしてただ宙を見ていただけだった。彼女の虚ろな瞳は、苦痛に充ちているのに、微かな悦楽の表情さえ見せていた。そして、やや距離をおいた場所で、古びた木製のスツールに腰を降ろし、イーゼルに掲げたデッサン紙の上で小刻みに指を動かす、ひとりの男の影が揺らめいていた。
〈南条 怜〉……どんな男なのか、顔も、からだつきもわからなかった……いや、正確に言うと、あなたの情念の中でははっきりと彼の姿をとらえていたのに、夢から覚めた瞬間、あなたは自分がいだいた夢想の情感のすべてを忘れていた。
ただ、夢の中のあなたは、燿子に対して自らのものを堅くし、勃起という不謹慎で、無責任な欲望だけを感じていたのではなかったか。あなたは毎夜のように青年画家に描かれている縛られた燿子を妄想し、夢精を繰り返した。
回廊の目の前に広がる庭園の芝生が夕陽の光を撥ね、きらきらと煌めいている。樹木をかさかさと揺らがせていた風が止み、静けさに充ちた空気が少しずつ黄昏色に染まってくる。
あの頃見た夢の記憶があなたを孤独に引き込み、泡立て、やがてその泡の粒が弾け、胸を締めつけながら消えていく。
燿子の裸体を眺め尽くし、まるで心までえぐるように描きぬいている画伯に、あなたはじわりじわりと胸を炙られる嫉妬をいだいていた。彼女の中の画伯の存在が、あなたを不可解な凋落へ引きずり込み、猜疑心を煽りたて、悪意となって《残酷なあなたの不在》へと導く。顔も知らない若い画伯は、おそらく縛った燿子のからだをすべてに対して奥深く視線を漲らせ、肌に触れ、彼女のすべてを知り尽くそうとデッサン紙に向っている。それはまるで燿子に対してほどこされる、淫靡な肉欲の秘儀のように思われた。
あなたは、外の回廊から建物の中に吸い込まれるようにふたたび足を踏み入れる。緑青に覆われた銅板に書かれた順路を示す端書があなたを次の展示室に導く。暗く細い廊下を抜けると地下室へと続く鉄の螺旋階段が順路として示されていた。ひんやりとした冷気が暗い穴のように抜けた階段の下から漂ってくる。微かなランプの光に照らされた足元を確かめながらゆっくりと階段を下りていく。
何かの音が聞こえてくる。女のすすり泣くような嗚咽、その嗚咽を裂くような鞭の音……確かにそれは女の肌に触り降ろされている鞭の音だった。階段の途中で足を止めると、幻覚なのか、耳鳴りのように聞こえては消え、その繰り返しだった。静寂の濃い空気だけが張りつめ、ふたたび階段を下りはじめる。
地下にたどり着くと、展示室を示す端書が錆びた鉄の扉に貼られていた。あなたはその扉を開けて部屋の中に入った。
粘るように澱んだ陰鬱な空気が頬に纏わりついてくる。部屋の床には血色の絨毯が敷きつめられ、三方の壁はすべてが鏡であり、黒く塗られた奥の壁だけに畳半分ほどの大きさの和紙に下絵のような素描が描かれていた。
ここは、ただの展示室ではなかった。暗闇に沈んだ天井からは不気味に垂れ下がる鎖や縄の束、壁にかけられた幾種類もの鞭、そして部屋の隅にある木製のスツールとイーゼル、この部屋は燿子が画伯にデッサンを描かれた場所であり、同時に燿子と画伯の特別な関係を示す部屋に違いないと、あなたが気づくのに時間はかからなかった。この部屋で燿子は画伯に縄で縛られ、鞭を打たれ、苦痛に晒される自分の姿をいやがうえにも、壁の鏡で見なければならなかったのだ……画伯が求めたデッサンの対象として……。